弟子を育てることは、自分が強くなること
とはまったく別物である。そこには弟子を
発掘する、育てるといった指導者の面及び
部屋経営者としての手腕が求められる。弟子
の光は七光りという。強い弟子を育てること
は部屋の繁栄、協会内の地位につながる。
現代は強い弟子を育てても必ずしも理事に
直結しない。関取ゼロでも理事になれるおか
しな時代である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/緑島-e1613710170795.jpg)
弟子の育成に手腕を発揮した親方をピック
アップしてみた。育てた力士は幕内に限定
した。まず、立浪部屋の源流ともいうべき
緑嶋を取りあげてみた。春日山(元朝日森)
部屋の緑嶋は大正4年夏場所を最後に引退
した。最高位は小結だった。引退後は独立
して立浪部屋をおこした。
最初の幕内力士は大正14年春場所の吉野山
である。約10年かかっている。最高位は前頭
筆頭で幕内を29場所務めた。のちの清恵波は
女婿である。翌場所の大正14年夏場所、池田
川が入幕した。本名は池田ではない。最高位
は前頭4枚目である。兼六山(ざん)は、
入門は浦風(元浦ノ濱)部屋だったが、のち
に立浪部屋に移籍している。立浪部屋の力士
として大正15年夏場所入幕している。しかし、
この場所全休で、結局幕内はこの1場所だけ
であった。幕内力士として土俵にあがること
はなかった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/池田川-e1613710188444.jpg)
昭和2年夏場所入幕したのが剣岳である。元
緑嶋の立浪は昭和7年の春秋園事件に部屋の
力士がまきこまれないようにはかっていた。
しかし、出羽海の力士を中心とする一団の
要求に対して、協会の回答は誠意なきもので
あった。これによって第2次脱退力士が出て
しまった。剣岳はこのとき第2次脱退力士の
革新力士団に加わってしまった。昭和6年
10月場所が事実上最後の場所になってしまっ
た。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/旭川.jpg)
昭和7年春場所、春秋園事件で大量の脱退
力士がでたため十両から繰上げ入幕せざるを
えなかった。そのなかに旭川でいた。北海道
旭川市出身であるが、出生地は富山県である。
同様に繰り上げ入幕となったのが双葉山で
ある。これまで立浪部屋の力士に三役力士は
いなかった。そして立浪部屋も小部屋であっ
た。ここから様相が変わっていった。
(この項目続く)
歯の検診にいってきました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。