大相撲

立浪(元緑嶋)が育てた弟子たち1

弟子を育てることは、自分が強くなること
とはまったく別物である。そこには弟子を
発掘する、育てるといった指導者の面及び
部屋経営者としての手腕が求められる。弟子
の光は七光りという。強い弟子を育てること
は部屋の繁栄、協会内の地位につながる。
現代は強い弟子を育てても必ずしも理事に
直結しない。関取ゼロでも理事になれるおか
しな時代である。

<緑嶋のブロマイド>

弟子の育成に手腕を発揮した親方をピック
アップしてみた。育てた力士は幕内に限定
した。まず、立浪部屋の源流ともいうべき
緑嶋を取りあげてみた。春日山(元朝日森)
部屋の緑嶋は大正4年夏場所を最後に引退
した。最高位は小結だった。引退後は独立
して立浪部屋をおこした。

最初の幕内力士は大正14年春場所の吉野山
である。約10年かかっている。最高位は前頭
筆頭で幕内を29場所務めた。のちの清恵波は
女婿である。翌場所の大正14年夏場所、池田
川が入幕した。本名は池田ではない。最高位
は前頭4枚目である。兼六山(ざん)は、
入門は浦風(元浦ノ濱)部屋だったが、のち
に立浪部屋に移籍している。立浪部屋の力士
として大正15年夏場所入幕している。しかし、
この場所全休で、結局幕内はこの1場所だけ
であった。幕内力士として土俵にあがること
はなかった。

<池田川のブロマイド>

昭和2年夏場所入幕したのが剣岳である。元
緑嶋の立浪は昭和7年の春秋園事件に部屋の
力士がまきこまれないようにはかっていた。
しかし、出羽海の力士を中心とする一団の
要求に対して、協会の回答は誠意なきもので
あった。これによって第2次脱退力士が出て
しまった。剣岳はこのとき第2次脱退力士の
革新力士団に加わってしまった。昭和6年
10月場所が事実上最後の場所になってしまっ
た。

<旭川のブロマイド>

昭和7年春場所、春秋園事件で大量の脱退
力士がでたため十両から繰上げ入幕せざるを
えなかった。そのなかに旭川でいた。北海道
旭川市出身であるが、出生地は富山県である。
同様に繰り上げ入幕となったのが双葉山で
ある。これまで立浪部屋の力士に三役力士は
いなかった。そして立浪部屋も小部屋であっ
た。ここから様相が変わっていった。

(この項目続く)

歯の検診にいってきました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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