大相撲

時津風の系統2

立浪部屋と時津風部屋は袂を分かつことに
なったが、破門ではなかった。系統別総あた
りでは立浪の力士と時津風の力士の対戦は
なかった。鏡里・大内山と安念山・北ノ洋の
対戦はなかった。

<元双葉山の時津風>

元双葉山の時津風は横綱鏡里、大関大内山・
豊山(前名内田)・北葉山らを育てた。だが、
理事長のまま56歳の若さで急逝してしまった。
昭和43年(1968年)12月のことであった。

部屋の後継者は元横綱であり、45歳になる
元鏡里だった。ところが双葉山未亡人が、
主人の意向は元豊山にあるという遺言があっ
たということで、後継者を変えることになっ
た。元豊山は九月場所引退したばかりであっ
た。そういうことならと元鏡里は時津風を
降り、元豊山は恐縮しながら時津風を襲名し、
師匠となった。

<豊山>

元豊山の時津風は関脇蔵間、小結豊山(前名
長浜)・大潮・双津竜、大豊などを育てた。
元豊山の時津風のもとで多くの分家が誕生
した。また理事長を2期4年務めた。
1971年9月 立田川(元鏡里)部屋
1982年12月 湊(元豊山=長浜)部屋
1992年4月 式秀(元大潮)部屋
2002年6月 荒汐(元大豊)部屋

2002年8月、元豊山の時津風は定年を迎えた。
時津風部屋を引き継いだのは元双津竜であっ
た。ところが、元双津竜の時津風が約5年後
とんでもない事件を引き起こした。親方と
3人の幕下が新弟子を暴行死させるという
ショッキングな事件がおきた。

2007年七月場所場所前のことであった。亡く
なった新弟子は時太山。時太山は稽古や人間
関係に悩み、脱走することがよくあった。
そんな新弟子に業を煮やした時津風はぶつ
かり稽古を30分もやらせた。親方自らがビー
ル瓶で殴り、幕下力士が金属バットで殴打
するという、悲惨極まりないものとなった。
時太山はこうして帰らぬ人となった。

<ビール瓶と金属バットが置かれた時津風部屋>

この事件で元双津竜の時津風は解雇された。
後継はまだ現役だった時津海が指名された。
時津海は即引退して時津風部屋を引き継いだ。
時津風の後継は双葉山-(鏡里)-豊山(前
名内田)-双津竜-時津海とまさに波乱含み
のなかで引き継がれていった。そして波乱は
やまなかった。現時津風(元時津海)がコロ
ナ禍でゴルフ旅行、居酒屋会食と雀荘、歓楽
街通いが問題となっている。処分は避けられ
ず、時津風部屋は悪化の一途を辿りつつある。

(この項目終わり)

飲み物はホットになりがちです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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