時津風(元時津海)親方が一月場所中雀荘、
歓楽街に何度も外出したとして問題になって
いる。コロナ禍のなか不要不急の外出や人
との接触を禁じた相撲協会感染予防に反する
ことになった。しかも九月場所前ゴルフ旅行、
居酒屋会食で委員から平年寄に2階級降格に
なった経緯があったにも関らずの不始末に
なった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/01/160507初日前日-111-e1612050265965.jpg)
今回の件で解雇となれば先代時津風(元双津
竜)に続いて2代続いての解雇になってしま
う。そうなると時津風部屋は不名誉きわまり
ない部屋となってしまう。次の時津風は元
土佐豊の間垣あるいは元蒼樹山の枝川という
声まで出てきている。
時津風部屋は双葉山がおこした名門である。
どんな系統をたどってきたのか。原点は以下
である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/01/時津風の傾倒A-1024x495.jpg)
大横綱双葉山は立浪(元緑嶋)部屋に所属
していた。立浪部屋は明治の末、元小結緑嶋
がおこした部屋である。この部屋には横綱
羽黒山、大関名寄岩がいて立浪三羽烏と呼ば
れていた。ほかに関脇旭川などがいた。それ
でいて双葉山と立浪(元緑嶋)の間には隙間
風が吹いていた。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/01/緑島-e1612050323509.jpg)
そのいきさつはこうだ。立浪(元緑嶋)は
双葉山に「ほうびに娘をやろう。部屋も継が
せる」ともちかけた。だが、双葉山には心に
決めた女性がいた。それだけではなかった。
立浪(元緑嶋)と双葉山は様々な点で意見が
折り合わなかった。その結果、双葉山は昭和
16年、双葉山相撲道場として独立した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/01/双-葉.jpg)
親友の元鏡岩の粂川が部屋も弟子も双葉山に
さしだした。不動岩、鏡里は粂川の直弟子で
ある。独立しても立浪一門の枠内では弟弟子
の元羽黒山を盛り立てることになってしまう。
そこで、双葉山相撲道場及び引退後の時津風
部屋は、勢力拡大に向かって他の部屋を併合
していった。
(この項目続く)
星取表が届きました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。