時津風(元時津海)親方が一月場所中雀荘、
歓楽街に何度も外出したとして問題になって
いる。コロナ禍のなか不要不急の外出や人
との接触を禁じた相撲協会感染予防に反する
ことになった。しかも九月場所前ゴルフ旅行、
居酒屋会食で委員から平年寄に2階級降格に
なった経緯があったにも関らずの不始末に
なった。
今回の件で解雇となれば先代時津風(元双津
竜)に続いて2代続いての解雇になってしま
う。そうなると時津風部屋は不名誉きわまり
ない部屋となってしまう。次の時津風は元
土佐豊の間垣あるいは元蒼樹山の枝川という
声まで出てきている。
時津風部屋は双葉山がおこした名門である。
どんな系統をたどってきたのか。原点は以下
である。
大横綱双葉山は立浪(元緑嶋)部屋に所属
していた。立浪部屋は明治の末、元小結緑嶋
がおこした部屋である。この部屋には横綱
羽黒山、大関名寄岩がいて立浪三羽烏と呼ば
れていた。ほかに関脇旭川などがいた。それ
でいて双葉山と立浪(元緑嶋)の間には隙間
風が吹いていた。
そのいきさつはこうだ。立浪(元緑嶋)は
双葉山に「ほうびに娘をやろう。部屋も継が
せる」ともちかけた。だが、双葉山には心に
決めた女性がいた。それだけではなかった。
立浪(元緑嶋)と双葉山は様々な点で意見が
折り合わなかった。その結果、双葉山は昭和
16年、双葉山相撲道場として独立した。
親友の元鏡岩の粂川が部屋も弟子も双葉山に
さしだした。不動岩、鏡里は粂川の直弟子で
ある。独立しても立浪一門の枠内では弟弟子
の元羽黒山を盛り立てることになってしまう。
そこで、双葉山相撲道場及び引退後の時津風
部屋は、勢力拡大に向かって他の部屋を併合
していった。
(この項目続く)
星取表が届きました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。