数ある相撲部屋で最も歴史があり、名門中の
名門といわれる部屋が出羽海部屋である。
9代続いている。出羽海部屋は、角聖といわ
れた元横綱常陸山の出羽ノ海が大きくした
部屋である。常陸山の師匠にあたるのが、
元常陸山虎吉の出羽ノ海である。さらに常陸
山虎吉が所属していた時期がある部屋が、
元桂川の出羽ノ海部屋である。なお、桂川は
常陸山を名のったことがある。桂川は二段目
までいったが、成績はもうひとつだった。
この桂川が出羽海部屋の祖とされるが、部屋
に稽古場がなく、相撲部屋の体裁をなして
いなかった。元桂川が亡くなると常陸山虎吉
は二枚鑑札で出羽ノ海部屋をやっていくこと
になった。稽古場がないことは変わりなかっ
た。人を介して入門してきたのが、市毛谷
少年であった。途中紆余曲折はあったが、
市毛谷は常陸山谷右衛門として頭角を現して
きた。大関に昇進したころは常陸山谷右衛門
を慕って30人ほどの弟子がいた。
常陸山谷右衛門は新しく部屋をかまえ、師匠
夫妻をそこに住まわせた。常陸山谷右衛門が
引退したとき、師匠は出羽ノ海を譲り隠居
した。そのときすでに11人の幕内力士がいた。
元横綱常陸山の出羽ノ海は大阪相撲からきて
いきなり幕内付出しになった力士を除けば、
横綱大錦・栃木山、大関對馬洋・常ノ花、
関脇小常陸・両国(前名松ヶ崎)・大門岩、
小結大ノ川・竜ヶ崎・近江富士・四海波、
平幕の宇都宮・福柳(地位は元横綱常陸山の
出羽ノ海存命中の最高位)など数くの弟子を
育てた。
昭和の相撲を見てきた者にとって、出羽海
部屋にとって絶えずつきまとっていたものが
分家独立を許さず、という言葉である。これ
は元 常陸山出羽ノ海の方針ではない。現に
両国 (前名国岩)は入間川部屋をおこして
いる。また、栃木山、大門岩の独立を認可して
いる。元常陸山出羽ノ海は48歳という若さで
急死してしまった。
後継は独立が決まっている栃木山を除くと
地位からいって大錦だった。だが、大錦には
人望がなかった。結局元両国(前名国岩)の
入間川が自分の部屋と出羽ノ海部屋を一緒に
する形で後継者になった。先代に畏敬をこめ
て出羽ノ海から「ノ」の字をはずして出羽海
となった。分家独立を許さずは、元両国(前
名国岩)出羽海からである。
(出羽海部屋続く)
炬燵を出しました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。