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現代相撲部屋継承事情11

数ある相撲部屋で最も歴史があり、名門中の
名門といわれる部屋が出羽海部屋である。
9代続いている。出羽海部屋は、角聖といわ
れた元横綱常陸山の出羽ノ海が大きくした
部屋である。常陸山の師匠にあたるのが、
元常陸山虎吉の出羽ノ海である。さらに常陸
山虎吉が所属していた時期がある部屋が、
元桂川の出羽ノ海部屋である。なお、桂川は
常陸山を名のったことがある。桂川は二段目
までいったが、成績はもうひとつだった。

この桂川が出羽海部屋の祖とされるが、部屋
に稽古場がなく、相撲部屋の体裁をなして
いなかった。元桂川が亡くなると常陸山虎吉
は二枚鑑札で出羽ノ海部屋をやっていくこと
になった。稽古場がないことは変わりなかっ
た。人を介して入門してきたのが、市毛谷
少年であった。途中紆余曲折はあったが、
市毛谷は常陸山谷右衛門として頭角を現して
きた。大関に昇進したころは常陸山谷右衛門
を慕って30人ほどの弟子がいた。

<常陸山のブロマイド>

常陸山谷右衛門は新しく部屋をかまえ、師匠
夫妻をそこに住まわせた。常陸山谷右衛門が
引退したとき、師匠は出羽ノ海を譲り隠居
した。そのときすでに11人の幕内力士がいた。
元横綱常陸山の出羽ノ海は大阪相撲からきて
いきなり幕内付出しになった力士を除けば、
横綱大錦・栃木山、大関對馬洋・常ノ花、
関脇小常陸・両国(前名松ヶ崎)・大門岩、
小結大ノ川・竜ヶ崎・近江富士・四海波、
平幕の宇都宮・福柳(地位は元横綱常陸山の
出羽ノ海存命中の最高位)など数くの弟子を
育てた。

昭和の相撲を見てきた者にとって、出羽海
部屋にとって絶えずつきまとっていたものが
分家独立を許さず、という言葉である。これ
は元 常陸山出羽ノ海の方針ではない。現に
両国 (前名国岩)は入間川部屋をおこして
いる。また、栃木山、大門岩の独立を認可して
いる。元常陸山出羽ノ海は48歳という若さで
急死してしまった。

<常陸山のブロマイド>

後継は独立が決まっている栃木山を除くと
地位からいって大錦だった。だが、大錦には
人望がなかった。結局元両国(前名国岩)の
入間川が自分の部屋と出羽ノ海部屋を一緒に
する形で後継者になった。先代に畏敬をこめ
て出羽ノ海から「ノ」の字をはずして出羽海
となった。分家独立を許さずは、元両国(前
名国岩)出羽海からである。

(出羽海部屋続く)

炬燵を出しました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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