横綱の始まり。相撲史家が明らかにしてきた
のは、地鎮祭の際の地踏み(四股と同じ動作)
が横綱の始まりのきっかけであった。これを
発展させたのが、相撲の家元吉田司家であっ
た。この儀式を土俵で行い、上覧相撲の演目
にするアイデァ打ち出したのである。吉田
司家が幕府に願い出ていた免許を与えられた
のが谷風と小野川である。横綱の土俵入りは
吉田司家のアイディアだが、五条家が独自に
横綱の免許を交付したのである。対抗措置で、
吉田司家が阿武松に横綱を免許した。谷風・
小野川から約38年経っていた。
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西ノ海は明治23年春場所後の天覧相撲に際し、
横綱の免許を受けることになっていた。小結
小錦が8勝1休で正大関に昇進し、大関西ノ
海は張出にまわることになった。しかし、
西ノ海は「横綱免許を受けた自分が張出に
まわされるのは屈辱だ」と憤り、異議を唱え
た。困った協会は窮余の策として、西ノ海の
上に横綱と書いた。これが横綱を地位化する
前提となった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/08/明治23年5月_横綱文字初登場番付_西ノ海-e1598584340388.jpg)
江戸時代、最後に横綱を免許された陣幕は、
引退後の明治28年ごろ、力士碑を建てようと
していた。そしてとてつもない発想をした。
それは横綱を免許された力士をピックアップ
して横綱石碑を建立しようとしたのである。
地位でもなく、ほかにも強豪力士がいる中で
そういう発想をした者はいなかった。初代
明石、2代綾川、3代丸山に横綱免許と土俵
入りの史実がなかったのに加えたのは、今日
まで間違いを引きずる要因となった。ただ、
陣幕は相撲史に通じていたわけではなく、
人の知恵を借りた面があった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/08/170818横綱碑-010-e1598584366131.jpg)
明治37年常陸山と2代目梅ヶ谷が同日横綱
として誕生した。そのとき、本当の意味で
初めて横綱に張出が設けられた。先輩横綱
大砲が張出横綱にまわったのだ。これはまぎ
れもなく、横綱を地位扱いしたものである。
それを裏付けるように、明治42年2月、東京
角力協会は横綱を最高力士として明文化した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/08/横綱 梅ヶ谷藤太郎-e1598584421527.jpg)
昭和16年相撲評論家の彦山光三氏が、羽黒山
の土俵入りを不知火型と決めつけてしまった。
その根拠は、不知火(諾)が両手を広げて
立っている錦絵があることであった。そして
そのほかの土俵入りを雲竜型としてしまった。
しかし、不知火(諾)の錦絵がせり上がって
から両手を広げたとは言い切れなかった。
今の雲竜型、不知火型は、彦山氏によって
昭和16年に根拠ともいえない根拠によって
決まったものである。これが一人歩きして
しまったところに根本的誤りがあった。なお、
土俵の目撃者では白鵬の土俵入りを「太刀山
型」、鶴竜の土俵入りを「梅ヶ谷(2代目)
型」として区別している。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/08/鬼面山不知火A-e1598584399144.jpg)
9月も暑そうです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。