横綱の始まり。相撲史家が明らかにしてきた
のは、地鎮祭の際の地踏み(四股と同じ動作)
が横綱の始まりのきっかけであった。これを
発展させたのが、相撲の家元吉田司家であっ
た。この儀式を土俵で行い、上覧相撲の演目
にするアイデァ打ち出したのである。吉田
司家が幕府に願い出ていた免許を与えられた
のが谷風と小野川である。横綱の土俵入りは
吉田司家のアイディアだが、五条家が独自に
横綱の免許を交付したのである。対抗措置で、
吉田司家が阿武松に横綱を免許した。谷風・
小野川から約38年経っていた。
西ノ海は明治23年春場所後の天覧相撲に際し、
横綱の免許を受けることになっていた。小結
小錦が8勝1休で正大関に昇進し、大関西ノ
海は張出にまわることになった。しかし、
西ノ海は「横綱免許を受けた自分が張出に
まわされるのは屈辱だ」と憤り、異議を唱え
た。困った協会は窮余の策として、西ノ海の
上に横綱と書いた。これが横綱を地位化する
前提となった。
江戸時代、最後に横綱を免許された陣幕は、
引退後の明治28年ごろ、力士碑を建てようと
していた。そしてとてつもない発想をした。
それは横綱を免許された力士をピックアップ
して横綱石碑を建立しようとしたのである。
地位でもなく、ほかにも強豪力士がいる中で
そういう発想をした者はいなかった。初代
明石、2代綾川、3代丸山に横綱免許と土俵
入りの史実がなかったのに加えたのは、今日
まで間違いを引きずる要因となった。ただ、
陣幕は相撲史に通じていたわけではなく、
人の知恵を借りた面があった。
明治37年常陸山と2代目梅ヶ谷が同日横綱
として誕生した。そのとき、本当の意味で
初めて横綱に張出が設けられた。先輩横綱
大砲が張出横綱にまわったのだ。これはまぎ
れもなく、横綱を地位扱いしたものである。
それを裏付けるように、明治42年2月、東京
角力協会は横綱を最高力士として明文化した。
昭和16年相撲評論家の彦山光三氏が、羽黒山
の土俵入りを不知火型と決めつけてしまった。
その根拠は、不知火(諾)が両手を広げて
立っている錦絵があることであった。そして
そのほかの土俵入りを雲竜型としてしまった。
しかし、不知火(諾)の錦絵がせり上がって
から両手を広げたとは言い切れなかった。
今の雲竜型、不知火型は、彦山氏によって
昭和16年に根拠ともいえない根拠によって
決まったものである。これが一人歩きして
しまったところに根本的誤りがあった。なお、
土俵の目撃者では白鵬の土俵入りを「太刀山
型」、鶴竜の土俵入りを「梅ヶ谷(2代目)
型」として区別している。
9月も暑そうです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。