七月場所、大関貴景勝は休場した。大関在位
6場所で3度目の休場である。ただ、8勝
4敗3休と既に勝ち越して、カド番を脱出
しての休場であった。勝ち越ししながら、
休場した大関は珍しいが、これまでいない
わけではない。どんな大関がいるのか、改め
て調べてみた。大関降格規定は以下である。
昭和2年~32年11月 2場所連続負け越し
昭和33年1月~44年5月 3場所連続負け越し
昭和44年7月~現在 2場所連続負け越し
そのため昭和以降に誕生した大関を対象とした。
初めて勝ち越しながら休場した大関は初代
若ノ花である。昭和31年秋場所のことであっ
た。若ノ花の場合12勝2不戦敗1休であって、
勝ち越しどころか優勝を目指す存在であった。
先場所の夏場所、大関で初優勝を達成した
若ノ花は秋場所優勝候補の筆頭であった。
横綱は4人いたが、夏場所吉葉山8勝7敗、
栃錦途中休場、鏡里9勝6敗、千代の山11勝
4敗であった。
巡業を終え、9月4日に帰京した若ノ花は
誰の目にも強くなっていた。翌9月5日、
悲劇は起きた。若ノ花の長男勝雄君がちゃん
こ鍋をひっくり返し、大やけどをおって亡く
なってしまったのだ。5歳であった。若ノ花
は憔悴し、魂が抜けたようであった。場所は
9月13日から始まるのに務まるのか。休場
したほうがいいのでは。という声をよそに
若ノ花は出場に踏み切った
若ノ花は数珠を身につけていた。その数珠
には亡き勝雄君の名前が刻まれていた。土俵
以外ではこの数珠を身につけていた。ひと
たび土俵に上がると鬼神の如き相撲ぶりで
あった。その姿は悲しみを超越し、土俵に
これ以上にないほど集中していた。相手は
ふるえあがった。この場所、若ノ花はついに
初日から12連勝をあげた。
ところがまたしても若ノ花を非運が襲った。
12日目の相撲の後、高熱を発し緊急入院した。
熱は下がらず、13日目の鏡里戦は不戦敗。
14日目は休場。ところが14日目の夕方から
熱が下がり、千秋楽は栃錦戦が組まれた。
しかし、再び発熱し、千秋楽はまたも不戦敗
となった。
こうして大関若ノ花は12勝をあげながら、
悲劇の休場となった。
(この項目続く)
式秀部屋の脱走力士9人とおかみさんは
わだかまりなく生活できるのだろうか。
興味深いテーマをこれからもお届けします。