大相撲

横綱の対大関戦の成績7

栃錦は少年時代、兄弟子のいいつけで質屋に
行かされた。これを知った師匠の春日野(元
栃木山)は「あんな少年を質屋にいかせる
なんてかわいそうに」と思い、親方の付け人
とした。栃木山は生活すべてを相撲に直結
させた方である。「寝るときは海老のように
なって寝れば、腰のバネは失われない。大の
字になって寝たら承知しないぞ」など教えを
吸収していった。

<栃錦のブロマイド>

横綱になって師匠に呼ばれたとき、誉めて
もらえるのかなと思ったら、そうではなかっ
た。「横綱というものは追い詰められて辞め
てはいけない。余力もって退くものだ」と
言う。横綱になったときに、引退の話をされ
たのだから、驚きであった。

さて、そんな横綱栃錦の対大関戦をみていこ
う。32勝(1不戦勝含む)13敗○19であった。
最多対戦は大関松登で8勝3敗である。次が
ライバルの大関若ノ花で6勝(1不戦勝含む)
3敗である。栃若戦は全体を通して前期は
栃錦、後期は若乃花有利となっていく。琴ヶ
濱に6勝2敗。栃錦が唯一勝ち越せなかった
大関が朝汐である。4勝4敗の五分に終わっ
ている。大関三根山に2勝、大関若羽黒に
3勝と負けなかった。

若乃花が横綱になったとき、「困ったなあ」
と頭を抱えていた。横綱は不成績なら引退
しなければならない。多くの兄弟をかかえて
いた若乃花はまだ辞められない事情を抱えて
いた。しかし、若乃花は横綱の責任から、
いままで以上に猛稽古をし、地位ごとに成績
をあげていった。

<若乃花のブロマイド>

若乃花の対大関戦は14勝11敗である。あまり
勝敗差がないように思える。これには理由が
ある。若乃花の最後の優勝が昭和35年の九月
場所だから9場所優勝がないまま昭和37年の
五月場所土俵を去ったわけである。本来なら
もう少し早く引退したかった。これは部屋を
おこすため、時間が必要だった。自宅を取り
壊して地鎮祭を行ったのは昭和36年8月で
あった。

こうした遅れた引退が影響して、大関柏戸に
1勝3敗、大関北葉山に1勝2敗となった。
最多対戦は大関若羽黒で6勝2敗である。
大関朝汐は強敵で3勝3敗の五分となって
いる。

朝潮は強い朝潮と弱い朝潮が同居していると
いわれた。横綱朝潮は後者で、かつ休場が
多い横綱であった。休場率は35%になる。
横綱在位16場所中皆勤は9場所である。横綱
朝潮の対大関戦は14勝10敗(1不戦敗含む)
であった。最多対戦は大関若羽黒で7勝2敗
(1不戦敗含む)であった。次が大関琴ヶ濱
で3勝3敗。若い力、大関柏戸に2勝3敗、
大関大鵬に1勝2敗と負け越している。

<朝潮のブロマイド>

東冨士から朝潮までの成績をまとめた表が
以下である。

(この項目続く)

ある画家の障害をいみました。
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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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