MENU

高砂の系統4

2代高砂(元高見山宗五郎)の下では多くの
分家が創設されていった。前回に引き続き
みていこう。幕内格行司木村一学は明治34年
6代若松を襲名し、部屋を開いた。昔は行司
も年寄になれた。栃木山の前の春日野は木村
宗四郎だし、横綱柏戸の前の鏡山は5代木村
勘太夫であった。いつから行司は年寄になれ
なくなったのか。昭和33年からである。行司
の弱体はここから始まったという見方をする
行司がいた。

若松部屋は八甲山、大ノ里がいた。ところが、
大正5年6代若松が亡くなると、三段目格
行司で、わずか24歳の2代木村一学が跡を
継ぐ動きになり、これに反発した八甲山、
大ノ里らは移籍した。移籍先は、3代高砂
(元2代朝潮)の下で独立した元綾浪源逸の
湊川部屋であった。のちに大ノ里は出羽海
(元常陸山)部屋に再移籍した。八甲山も
高島(元谷ノ音)部屋に再移籍している。

<八甲山のブロマイド>

大見崎(最高位前頭2枚目)は途中休場、
全休、全休の成績後、明治36年春場所で引退
した。阿武松を襲名して部屋をおこした。
綾浪徳太郎の弟子で、師匠亡き後高砂部屋
所属となっていた綾渡りは追手風部屋を新た
におこした。初代大関朝汐は明治41年春場所
で引退した。最後は平幕だった。独立して
佐ノ山部屋を創設した。大正9年に亡くなる
と弟子は3代高砂に託された。

<初代大関朝汐のブロマイド>

さらに関脇稲川が明治42年稲川部屋を新たに
おこし、前頭3枚目大緑が明治45年、大山
部屋を創設した。大正13年に大山は廃業して
いる。新しい部屋が誕生しても部屋はなか
なか継続していかない傾向があった。

温厚な人柄で人望があり、取締になった2代
高砂が大正3年7月4日に亡くなられた。
63歳であった。高砂は誰が継ぐのか。高砂の
後継者争いが勃発した。

(この項目続く)

再び雨の日です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
イラストとマークの2カ所をクリックして支援してください。

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

目次