大相撲

高砂の系統4

2020年6月22日

2代高砂(元高見山宗五郎)の下では多くの
分家が創設されていった。前回に引き続き
みていこう。幕内格行司木村一学は明治34年
6代若松を襲名し、部屋を開いた。昔は行司
も年寄になれた。栃木山の前の春日野は木村
宗四郎だし、横綱柏戸の前の鏡山は5代木村
勘太夫であった。いつから行司は年寄になれ
なくなったのか。昭和33年からである。行司
の弱体はここから始まったという見方をする
行司がいた。

若松部屋は八甲山、大ノ里がいた。ところが、
大正5年6代若松が亡くなると、三段目格
行司で、わずか24歳の2代木村一学が跡を
継ぐ動きになり、これに反発した八甲山、
大ノ里らは移籍した。移籍先は、3代高砂
(元2代朝潮)の下で独立した元綾浪源逸の
湊川部屋であった。のちに大ノ里は出羽海
(元常陸山)部屋に再移籍した。八甲山も
高島(元谷ノ音)部屋に再移籍している。

<八甲山のブロマイド>

大見崎(最高位前頭2枚目)は途中休場、
全休、全休の成績後、明治36年春場所で引退
した。阿武松を襲名して部屋をおこした。
綾浪徳太郎の弟子で、師匠亡き後高砂部屋
所属となっていた綾渡りは追手風部屋を新た
におこした。初代大関朝汐は明治41年春場所
で引退した。最後は平幕だった。独立して
佐ノ山部屋を創設した。大正9年に亡くなる
と弟子は3代高砂に託された。

<初代大関朝汐のブロマイド>

さらに関脇稲川が明治42年稲川部屋を新たに
おこし、前頭3枚目大緑が明治45年、大山
部屋を創設した。大正13年に大山は廃業して
いる。新しい部屋が誕生しても部屋はなか
なか継続していかない傾向があった。

温厚な人柄で人望があり、取締になった2代
高砂が大正3年7月4日に亡くなられた。
63歳であった。高砂は誰が継ぐのか。高砂の
後継者争いが勃発した。

(この項目続く)

再び雨の日です。
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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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