風雲児高砂浦五郎は、明治16年5月ついに
取締の座についた。明治24年永久取締を
宣言すると雷(元初代梅ヶ谷)らの猛反発を
招き、取り消さざるを得なくなった。高砂の
専横はついに力士のクーデターを招き、つい
に退任せざるを得なくなった。明治29年1月の
出来事であった。明治33年3月一代の風雲児
は波乱の生涯を終えた。61歳であった。
2代目高砂となったのが元高見山宗五郎の
阿武松だった。明治25年夏場所後初代高砂の
もとで独立した関脇綾浪徳太郎は、その後
どうなったのか。彼は明治42年に死去した。
弟子は2代高砂に移籍した。2代目高砂の下
からは数多くの部屋が独立し、部屋を創設
していった。
まず、横綱免許を受けた小錦が2場所全休後
の明治34年春場所で引退した、そして二十山
部屋を創設した。弟子として2代目小結小錦
(前名山泉)を育てた。大正3年10月で師匠
が死去すると、弟子の小結小錦が二十山部屋
を継いだ。千葉ヶ崎を大関にし、関脇若葉山、
さらに大関清水川を育てた。昭和17年3月、
師匠亡き後は弟子を双葉山相撲道場へ預けた。
二十山部屋の弟子の清水川は引退後=昭和12
年夏場所後、追手風部屋を創設して分家した。
2代目小結清水川を育てたが、定年にとも
ない、昭和39年十一月場所後に部屋を閉鎖し、
立浪(元羽黒山)部屋に弟子を託した。昭和
34年2月1日、2代目小結清水川が分家独立
し、間垣部屋をおこした。だが、関取は出ず、
最後は弟子が少なくなり、昭和50年一月場所
限りで部屋は消滅した。
明治35年春場所引退した小結千年川(ちとせ
がわ)政吉が分家独立して立田山部屋をおこ
した。大正元年亡くなると次の立田山である
二枚鑑札の小結千年川(ちとせがわ)亀之助
までの間に約半年のブランクがある。この
立田山部屋は昭和2年5月自身の廃業で消滅
している。
2代目高砂(元高見山宗五郎)の下の分家
独立はまだまだ続く。
(この項目続く)
雨の日です。
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