大相撲

高砂の系統3

2020年6月19日

風雲児高砂浦五郎は、明治16年5月ついに
取締の座についた。明治24年永久取締を
宣言すると雷(元初代梅ヶ谷)らの猛反発を
招き、取り消さざるを得なくなった。高砂の
専横はついに力士のクーデターを招き、つい
に退任せざるを得なくなった。明治29年1月の
出来事であった。明治33年3月一代の風雲児
は波乱の生涯を終えた。61歳であった。

<2代目高砂 国技館開設記念絵葉書より>

2代目高砂となったのが元高見山宗五郎の
阿武松だった。明治25年夏場所後初代高砂の
もとで独立した関脇綾浪徳太郎は、その後
どうなったのか。彼は明治42年に死去した。
弟子は2代高砂に移籍した。2代目高砂の下
からは数多くの部屋が独立し、部屋を創設
していった。

<横綱小錦のブロマイド>

まず、横綱免許を受けた小錦が2場所全休後
の明治34年春場所で引退した、そして二十山
部屋を創設した。弟子として2代目小結小錦
(前名山泉)を育てた。大正3年10月で師匠
が死去すると、弟子の小結小錦が二十山部屋
を継いだ。千葉ヶ崎を大関にし、関脇若葉山、
さらに大関清水川を育てた。昭和17年3月、
師匠亡き後は弟子を双葉山相撲道場へ預けた。

<山泉(小結小錦)のブロマイド>

二十山部屋の弟子の清水川は引退後=昭和12
年夏場所後、追手風部屋を創設して分家した。
2代目小結清水川を育てたが、定年にとも
ない、昭和39年十一月場所後に部屋を閉鎖し、
立浪(元羽黒山)部屋に弟子を託した。昭和
34年2月1日、2代目小結清水川が分家独立
し、間垣部屋をおこした。だが、関取は出ず、
最後は弟子が少なくなり、昭和50年一月場所
限りで部屋は消滅した。

<清水川のブロマイド>

明治35年春場所引退した小結千年川(ちとせ
がわ)政吉が分家独立して立田山部屋をおこ
した。大正元年亡くなると次の立田山である
二枚鑑札の小結千年川(ちとせがわ)亀之助
までの間に約半年のブランクがある。この
立田山部屋は昭和2年5月自身の廃業で消滅
している。

2代目高砂(元高見山宗五郎)の下の分家
独立はまだまだ続く。

(この項目続く)

雨の日です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
イラストとマークの2カ所をクリックして支援してください

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • この記事を書いた人
denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2020 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.