優勝制度が正式に始まったのは、大正15年
からである。協会は優勝確立のために不戦勝
制度を設けた。今までは、対戦相手が休場
すると、自分も「や」扱いされた。そして
段階的ではあるが取り直し制度も導入された。
しかし、幕内で横綱・大関と対戦圏外で優勝
争いをしている力士に関しての規定はなかっ
た。
<賜杯>
横綱・大関との対戦圏外といっても東西制
では現代と異なる。東西制においては、東方
力士は西方力士としか対戦せず、西方力士は
東方力士としか対戦しない。そのため、例え
ば11日制の大正15年春場所では東方は前頭
5枚目までが横綱・大関との対戦圏内であり、
西方は横綱西ノ海はじめ4力士が全休のため、
前頭10枚目までが横綱・大関との対戦圏内で
ある。
また優勝決定戦制度はなく、同成績の場合は
番付上位者が優勝者となる。下位力士は並ん
だだけでは優勝できないのである。以上を
踏まえて横綱・大関対戦圏外の好成績者を
見ていこう。彼らは必ずしも優勝争いに加わ
っているとはいえないケースもある。だが、
便宜上すべて掲載したことをお断りしておく。
11戦全勝で優勝した。しかし、翌場所早くも
横綱・大関との対戦がない優勝が出てしまっ
た。前頭8枚目の大蛇山である。大蛇山は
終盤小結福柳、関脇常陸岩と対戦しているが、
大関大ノ里戦はついになかった。また同成績
の錦洋とは同じ方屋のため、対戦がなかった。
上位の最高成績は横綱西ノ海の9勝2敗である。
昭和2年の東西合併後の場所では、新入幕
の星甲が8勝3敗と好成績をあげた。だが、
横綱・大関の対戦圏内に9勝2敗が一人、
8勝3敗が2人いた。星甲は実質第5位の
成績に相当する。それは翌場所の一ノ濱も
同様で実質5位であった。
そして昭和3年春場所、思いもよらない展開
が待っていた。
米をよく食べます。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
マーク2カ所をクリックして支援して
ください。
よしなに
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
↑↑↑↑↑↑↑↑