大相撲

横綱10大史6 根拠のない土俵入り名と意味1

2017年9月2日

今年の一月場所後、稀勢の里が横綱に昇進
した。横綱の土俵入りは、せり上がるときに
左手を曲げ、右手をのばす型を選び、雲竜型
と紹介された。一方、白鵬、日馬富士が見せ
るせり上がるときに両手を広げる型を不知火
型と呼ばれている。何が問題なのか。まず、
初めに言っておくことは、江戸の横綱雲竜も
不知火(光)もどんな土俵入りをしたかは、
まるでわかっていないことである。ただ、
土俵入りは美しかったという評判が伝わって
いるだけである。
雲龍久吉■國明画
<雲竜の錦絵>

わかっていない土俵入りにどうして横綱の
四股名がついたのか。土俵入り名はどう伝わ
ってきたのか。歴史の流れとともに見ていこ
う。明治2年に撮影された写真がある。右が
鬼面山、左が不知火(光)である。鬼面山が
両手を広げ、不知火(光)が左手を曲げ、
右手を伸ばしている。これこそが不知火の
土俵入りの型ではないだろうか。この写真は
かなり有力な証拠になる。もう少しみてみよ
う。
鬼面山不知火A
<朝日新聞の記事>

明治、大砲、常陸山、2代目梅ヶ谷の横綱の
土俵入りは不知火の型を踏襲したものである、
と新聞で報道された。2代目梅ヶ谷の横綱の
土俵入りについて、木村瀬平が「(2代目)
梅ヶ谷の土俵入りはすべて不知火にのっとっ
たものである」という趣旨のことを話して
いる。

明治44年2月、太刀山が横綱に昇進した。
土俵入りはせり上がるとき、両手を広げる型
を選択した。太刀山は「わしは不器用なので
、庄之助に教わった雲龍の型からとった」と
語っている。この発言を元に各新聞は太刀山
の土俵入りは雲竜型と書いた。ここまでの
流れをみると今、雲竜型といっている横綱の
土俵入りは実は不知火型で、不知火型といっ
ている横綱の土俵入りは雲竜型である。とこ
ろが太刀山談話とは逆に、彼の土俵入りは
「不知火型」と書いた新聞もいくつか出て
きた。この辺に混乱の源があるようだ。
横綱不知火 国貞画
<不知火(光)の錦絵>

実は、雲竜型が不知火型に不知火型が雲竜型
と誤って伝わってしまった元凶は、相撲評論
家の彦山光三氏にあった。
(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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