今年の一月場所後、稀勢の里が横綱に昇進
した。横綱の土俵入りは、せり上がるときに
左手を曲げ、右手をのばす型を選び、雲竜型
と紹介された。一方、白鵬、日馬富士が見せ
るせり上がるときに両手を広げる型を不知火
型と呼ばれている。何が問題なのか。まず、
初めに言っておくことは、江戸の横綱雲竜も
不知火(光)もどんな土俵入りをしたかは、
まるでわかっていないことである。ただ、
土俵入りは美しかったという評判が伝わって
いるだけである。
わかっていない土俵入りにどうして横綱の
四股名がついたのか。土俵入り名はどう伝わ
ってきたのか。歴史の流れとともに見ていこ
う。明治2年に撮影された写真がある。右が
鬼面山、左が不知火(光)である。鬼面山が
両手を広げ、不知火(光)が左手を曲げ、
右手を伸ばしている。これこそが不知火の
土俵入りの型ではないだろうか。この写真は
かなり有力な証拠になる。もう少しみてみよ
う。
明治、大砲、常陸山、2代目梅ヶ谷の横綱の
土俵入りは不知火の型を踏襲したものである、
と新聞で報道された。2代目梅ヶ谷の横綱の
土俵入りについて、木村瀬平が「(2代目)
梅ヶ谷の土俵入りはすべて不知火にのっとっ
たものである」という趣旨のことを話して
いる。
明治44年2月、太刀山が横綱に昇進した。
土俵入りはせり上がるとき、両手を広げる型
を選択した。太刀山は「わしは不器用なので
、庄之助に教わった雲龍の型からとった」と
語っている。この発言を元に各新聞は太刀山
の土俵入りは雲竜型と書いた。ここまでの
流れをみると今、雲竜型といっている横綱の
土俵入りは実は不知火型で、不知火型といっ
ている横綱の土俵入りは雲竜型である。とこ
ろが太刀山談話とは逆に、彼の土俵入りは
「不知火型」と書いた新聞もいくつか出て
きた。この辺に混乱の源があるようだ。
「不知火型」と書いた新聞もいくつか出て
きた。この辺に混乱の源があるようだ。
実は、雲竜型が不知火型に不知火型が雲竜型
と誤って伝わってしまった元凶は、相撲評論
家の彦山光三氏にあった。
(この項目続く)
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久々の航空会社の予約支払にとまどい
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