見たくない結末である。負けが込んで休場
するくらいなら、最初から休場したほうが
はるかにスッキリする。そうしなかったのは
明らかに判断の誤りである。途中休場した
ことは稀勢の里にとって、何も残らない。
再起への道筋も、次へのステップもすべては
いたずらに時をすごし、出遅れのスタートに
なってしまった。
途中休場したことで、横綱のフル出場負け
越しの恐れはなくなった。だが、途中休場は
事実上の負け越しである。けして休場が負け
よりましなものではない。横綱の責任を果た
せないという点においてはなんら変わらない。
魁傑は「休場は試合放棄」と負けが込んでも
休まなかった。この言葉は当時相当のインパ
クトをもって受け止められた。これまで横綱・
大関は負けが込むと休場があたりまえであっ
た。この悪しき因習に誰もがすっきりしない
ものを感じていたのを魁傑が一掃した。
玉の海は虫垂炎を患っていた。玉の海は持ち
前の責任感から切らずに注射で散らしていた。
それが昭和46年夏の巡業、九月の本場所と
長期に渡っていた。
実は九月場所前、玉の海の四股名を名乗る
ことを許諾したNHK解説者の玉の海梅吉氏
は「症状がでているなら最初から休場した
ほうがいい。出場して負けが込んで休場では
いかにもみっともない」と休場を薦めていた。
これに対し横綱玉の海は「先代、私は不死身
なんでしょうかねえ。無様な相撲を取ったら、
遠慮なく批判してください」とポンと腹を
たたいたという。玉の海は苦闘のなかから
12勝3敗と横綱の責任をみごとにはたした。
11日目、白鵬は豪栄道を退け、日馬富士は
御嶽海に不覚をとった。稀勢の里が消えた
土俵は、寂しさだけが残った。