大相撲

相撲部屋紙一重の継承

2017年2月21日

相撲部屋の継承は必ずしもスムーズにいく
とは限らない。ともすればお家騒動に発展
する恐れがある。引き継ぐといっても現代は
建物まではいかないケースもみられる。時の
人、稀勢の里の所属する部屋は田子ノ浦(元
隆の鶴)部屋である。以前は鳴戸(元隆の里)
部屋だった。師匠の元隆の里が亡くなられた
後も元隆の鶴が部屋を継いでいた。だが、
ある日突然部屋を出て、新たに田子ノ浦部屋
を創設した。このケースは弟子だけを引き
継いだカタチといえる。
時津風
<時津風(元双葉山)>
 
相撲部屋の継承で思い出されるのは、時津風
部屋である。時津風部屋は無敵双葉山が、
立浪(元緑嶋)部屋から双葉山相撲道場と
して独立した後改称したものである。元双葉
山の時津風は、師匠として横綱鏡里、大関
大内山・北葉山・豊山など多くの力士を育て
る一方、理事長として部屋別総当たり、幕内・
十両の枚数削減などに手腕を発揮してきた。
鏡里
<鏡里>
 
ところが、元双葉山は現役の理事長のまま
昭和43年、56歳という若さで急逝してしまっ
た。もっとも当時は元羽黒山の立浪が54歳、
元前田山の高砂が57歳でなくなり、横綱短命
説がささやかれていた。突然の師匠の急死に
後継者を決めなければならなかった。横綱に
なり、部屋の古株であった元鏡里が後継者に
指名され時津風となった。
豊山
<豊山>
 
ところが、元双葉山の未亡人が、主人の意向
は元豊山である、という趣旨の発言をした。
元豊山は引退したばかりであった。そういう
ことならと元鏡里は時津風を降りた。鏡里は
先輩であり、横綱までいった人と恐縮しな
がらも、豊山は時津風部屋の師匠となった。
問題は元双葉山の遺言はほかに聞いた人が
誰一人いないことであった。こうした経緯の
上に、正代、小柳が所属する現在の時津風
部屋がある。
佐渡ヶ嶽琴錦・琴ヶ濱
<先々代佐渡ヶ嶽
(元琴錦)>
 
もう一つ忘れられない部屋継承がある。昭和
49年七月場所、全休していた横綱琴桜が引退
を声明した。しかし、師匠佐渡ヶ嶽(元初代
琴錦)との話し合いが十分行われていなかっ
た。引退を引っ込める、引っ込めないでもめ、
感情的になってしまった。
06初 千秋楽三役以降 063
<先代佐渡ヶ嶽(元琴桜)>
 
琴桜は白玉部屋を興す予定であった。ところ
が病気中であった佐渡ヶ嶽が突然亡くなって
しまった。結局琴桜は佐渡ヶ嶽を引き継ぐ
カタチになった。佐渡ヶ嶽(元初代琴錦)が
もう少し長生きして、琴桜が独立していたら
部屋の力士すべてに「琴」がつくことは
なかったかもしれない。

金正男暗殺事件から目が離せません。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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