相撲部屋の継承は必ずしもスムーズにいく
とは限らない。ともすればお家騒動に発展
する恐れがある。引き継ぐといっても現代は
建物まではいかないケースもみられる。時の
人、稀勢の里の所属する部屋は田子ノ浦(元
隆の鶴)部屋である。以前は鳴戸(元隆の里)
部屋だった。師匠の元隆の里が亡くなられた
後も元隆の鶴が部屋を継いでいた。だが、
ある日突然部屋を出て、新たに田子ノ浦部屋
を創設した。このケースは弟子だけを引き
継いだカタチといえる。

<時津風(元双葉山)>
相撲部屋の継承で思い出されるのは、時津風
部屋である。時津風部屋は無敵双葉山が、
立浪(元緑嶋)部屋から双葉山相撲道場と
して独立した後改称したものである。元双葉
山の時津風は、師匠として横綱鏡里、大関
大内山・北葉山・豊山など多くの力士を育て
る一方、理事長として部屋別総当たり、幕内・
十両の枚数削減などに手腕を発揮してきた。

<鏡里>
ところが、元双葉山は現役の理事長のまま
昭和43年、56歳という若さで急逝してしまっ
た。もっとも当時は元羽黒山の立浪が54歳、
元前田山の高砂が57歳でなくなり、横綱短命
説がささやかれていた。突然の師匠の急死に
後継者を決めなければならなかった。横綱に
なり、部屋の古株であった元鏡里が後継者に
指名され時津風となった。

<豊山>
ところが、元双葉山の未亡人が、主人の意向
は元豊山である、という趣旨の発言をした。
元豊山は引退したばかりであった。そういう
ことならと元鏡里は時津風を降りた。鏡里は
先輩であり、横綱までいった人と恐縮しな
がらも、豊山は時津風部屋の師匠となった。
問題は元双葉山の遺言はほかに聞いた人が
誰一人いないことであった。こうした経緯の
上に、正代、小柳が所属する現在の時津風
部屋がある。

<先々代佐渡ヶ嶽
(元琴錦)>
もう一つ忘れられない部屋継承がある。昭和
49年七月場所、全休していた横綱琴桜が引退
を声明した。しかし、師匠佐渡ヶ嶽(元初代
琴錦)との話し合いが十分行われていなかっ
た。引退を引っ込める、引っ込めないでもめ、
感情的になってしまった。

<先代佐渡ヶ嶽(元琴桜)>
琴桜は白玉部屋を興す予定であった。ところ
が病気中であった佐渡ヶ嶽が突然亡くなって
しまった。結局琴桜は佐渡ヶ嶽を引き継ぐ
カタチになった。佐渡ヶ嶽(元初代琴錦)が
もう少し長生きして、琴桜が独立していたら
部屋の力士すべてに「琴」がつくことは
なかったかもしれない。
金正男暗殺事件から目が離せません。
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