大相撲

横審誕生以前の横綱の昇進1

2017年2月22日

横綱審議委員会が誕生したのは、昭和25年
4月21日であった。横綱でいえば千代の山
からである。また、横綱昇進の基準ができた
のは、昭和33年1月6日である。適用された
のは、初代横綱若乃花以降である。その内容
は以下である。

一、横綱に推薦する力士は品格、力量が抜群
であること。
二、今後の横綱推薦に対しては、横綱審議委
員会が、大関で二場所連続優勝した力士を横
綱に推薦することを原則とする。
三、第二項に準ずる成績をあげた力士を推薦
する場合は、全委員の一致の決議を必要とす
る。(後3分の2に変更)

これが発表されたとき、協会関係者から「昔
の横綱でさえ連続優勝はあまりなかったの
では」と驚きをもって迎えられた。それでは
昔の横綱はどんな成績で横綱に昇進したのか
調べてみた。

対象は、横綱が実質地位化した常陸山以降の
東京横綱とした。年間2場所制、取組が東西
別、東西制、興行日数、取り直し制度なし、
不戦勝不戦敗なしと、現代とあまりにも違い
すぎるが、そこは時代の限界ということで
数字を見ていただきたい。表示したのは1年
間の成績、つまり2場所である。
横審以前の昇進1A
明治42年6月以前は幕内最高成績者を表彰
する制度はない。そこで最高成績を参考の
ため薄黄色で表示した。常陸山は連続最高
成績で横綱に推挙された。直前、大関同士で
全勝相星決戦の常陸山対梅ヶ谷戦は、常陸山
が制して全勝した。後年受けて立つ横綱相撲
のイメージは常陸山が始まりである。
常陸山
<常陸山のブロマイド>
 
常陸山の「できることなら、梅ヶ谷関と一緒
に横綱になりたい」という申し出から梅ヶ谷
も横綱に昇進した。梅ヶ谷の2場所前は途中
休場で、現代なら問題にもならないが、当時
は休場=負けというほどの扱いにはなって
いない。3場所前は8勝1敗と好成績を残し
ている。梅ヶ谷の25歳で横綱は、称号時代の
横綱と比較して最年少横綱だった。
横綱「梅ヶ谷」★
<梅ヶ谷のブロマイド>
 
明治42年6月、国技館の誕生とともに時事
新報社が、幕内最高成績者の額を国技館に
掲げる優勝制度が始まった。協会認定の優勝
制度の前身といえる。そこで連続優勝して
横綱に昇進したのが、太刀山である。しかも、
これは5連覇の途中であった。45日(=1月
半=一突き半)の突っ張りは対戦相手に恐れ
られた。大関以降は角聖常陸山に2勝2分で
ある。梅ヶ谷とは同じ方屋が多く対戦はなか
った。
横綱太刀
<太刀山のブロマイド>
 
鳳は直前の場所か優勝しているが、2場所前
は途中休場である。横綱の免許状を与える
吉田司家は当然難色を示したが、鳳人気に
便乗したい協会に押し切られてしまった。
女性人気は特に凄かった。なお、鳳の3場所
前は8勝2敗である。しかし、横綱昇進後は
受けて立つ横綱相撲を取ろうとした結果、
不成績が目立った。
横綱 鳳)絵葉書
<鳳のブロマイド>
 
(この項目続く)

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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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