時の人稀勢の里だが、最後に「里」がつく
四股名は、幕内では唯一人である。ある意味
珍しい四股名の分類に結果的になっている。
すぐ思いつく○○里の四股名は、同部屋の
兄弟子だった若の里、師匠だった隆の里で
あろう。最後に「里」のつく四股名のルーツ
は誰か、調べてみた。対象は江戸・東京の
幕内力士である。江戸は番付が現存する宝暦
7年以降とした。なお、途中改名した力士は
除外した。
ルーツは宝暦7年(1753年)冬場所に四股名
を見ることができる出野里(いでのさと)で
ある。しばらくして、再び江戸に登場する
のは、宝暦10年の冬場所で出ノ里として四股
名を見ることができる。江戸期は出ノ里一人
である。ちなみに横綱の不知火(諾)は前名
濃錦里(のぎのさと)であることを付記して
おく。
明治も狭布里(きょうのさと)一人である。
明治29年春場所入幕で翌場所の初日いきなり、
横綱の小錦に勝利している。最高位は前頭3
枚目であった。ここまで「里」はあまりポピ
ュラーではなかった。大正では大関が登場
する。大ノ里(出羽海部屋)である。100キロ
に満たない名人大関であった。昭和7年の
春秋園事件では協会を脱退し、最後まで天竜
と行動した。
昭和戦前で○○里は6人いる。大ノ里の甥の
藤ノ里(出羽海部屋)である。戦後、物資
不足のとき、新十両初代若ノ花に化粧まわし
を贈っている。駒ノ里は双葉山の69連勝に
3度でてくる。しかも69連勝目が駒ノ里で
あったことから四股名を覚えている方もいる
ことと思う。鯱ノ里は年寄若松として褐色の
弾丸房錦、潜航艇岩風らを育てたことが光る。
双葉山は69連勝以外に36連勝がある。36連勝
でストップしたのが、松ノ里(出羽海部屋)
である。昭和19年春場所6日目のことである。
それもちょん掛けで決まってしまった。ほか
に武ノ里、陸奥ノ里がいる。いずれも出羽海
である。○○里はこの時期出羽海部屋力士に
多く見られることがわかる。
戦後最初に登場するのは、鏡里である。ここ
で初めて○ノ(の)里のパターンではない里
がつく四股名が登場したわけである。明日は
大関若ノ花ですが、いかがですかと記者が
尋ねたとき「こっちは横綱だよ」と答えた
エピソードがある。福ノ里は1度牛若丸に
改名したが、再び福ノ里に戻している。最終
的には福乃里になった。鏡里と同じ時津風
部屋なのが青ノ里である。鏡里が立田川部屋
を興したとき、後にその部屋を継いでいる。
最後に「里」がつく横綱2人目が稀勢の里の
師匠であった隆の里である。2代目若乃花
と同じ列車で上京したり、糖尿病との闘いに
勝ったり、おしん横綱と呼ばれたり、とエピ
ソードがつきない横綱であった。ここからは
この目でみた力士ではないだろうか。三杉
里、旭里、若の里、そして稀勢の里である。
稀勢の里は、17人目の最後に「里」がつく
四股名である。稀勢の里に続く○○里の幕内
力士ははたして出るか。今後を見守りたい。