大相撲

出羽海の系統15

2015年6月29日

1967(昭和42)年一月場所後の31日午後4時出羽海
部屋の3階大広間は重苦しい雰囲気が支配していた。
正面中央に机を前にした出羽海(元出羽ノ花)。その右
には秀の山(元笠置山)、左には分家の春日野(元栃錦)、
さらに左サイドに不知火(元八方山)、藤島(元出羽湊)、
出来山(元汐ノ海)、田子ノ浦(元出羽錦)、松ヶ根(元
羽島山)、峰崎(元那智山)、境川(元大起)、阿武松(元
大晃)が2列に並んでいた。出羽海の下座には九重(元
千代の山)が正座するといういささか時代がかった光景と
なっていた。

九重2
<九重独立を伝える「大相撲」読売新聞社刊>

出羽海は年寄の意見を聞いていた。弟子を連れて行く
なんてとんでもない。破門すべきだ。連れてきたのは
九重かもしれないが育てたのは出羽海だ。など強行意見も
出ていた。出羽海は低頭する九重を前にして口を開いた。
「君の申し入れた部屋の分離を承認する。ただし、要求
した力士のなかに親が反対している者が3人いるから
残すように。あとはよろしい」英断だった。九重の申し
入れがほぼ受けいられたカタチになった。だが、出羽海は
こう続けた。「分離によって君と所属力士は出羽海、
春日野といった一門からはずす。いいな」名門からの
破門である。「はいわかりました」と九重は返答した。
春日野が「九重くん、うちも縁を切るからな」と付け
加えた。

新生九重部屋が2月2日の理事会で正式に承認され、誕生
した。九重についていった力士は大関北の富士、幕内禊鳳、
幕下松前山、千代の海、若狭山(後の北瀬海)、三段目
見崎山、松前洋、序二段千代の花、斉藤(後の千代桜)、
木元である。

出羽海が強行意見を採用しなかったのは以下によるもの
と考えられる。
1.お家騒動になっては相撲人気に大変なマイナスである
こと
2、認められなければ九重は力士を連れて脱退覚悟で
あったこと
3.そうなれば協会裁定で出羽海・九重の両者に謹慎の
可能性がでて醜態を世間にさらしてしまう結果になること
4.北の富士らの決意は固く、最悪髷を切る覚悟であった
こと
5.新聞に九重とともに行動する力士の名前が出てしまい、
出羽海部屋にいずらい流れが出て来たこと
6.将来佐田の山が出羽海を継ぐにあたり、不満分子を
一掃できること

知恵者出羽海ならではの決断であった。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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