元出羽ノ花の出羽海と元横綱千代の山の九重は17歳の年の
開きがあった。次の出羽海は自分という思いが九重には
あった。だが、それはある事件によって打ち砕かれた。
その事件とは元出羽ノ花が出羽海になった1960(昭和35)
年12月から約2年4ヶ月後の1963(昭和38)4月に
おきた。大関佐田の山が出羽海の市川家に婿入りしたのだ。
九重の先行きがにわかにあやしくなった。
<出羽海>
当時の出羽海部屋は先々代出羽海(元両国(前名国岩))
と先代出羽海(元常ノ花)の遺族と部屋の後援会である
出羽海会の共同名義になっていた。部屋の後援会が部屋の
名義人になっているというのは非常に珍しいカタチだが、
相続の金銭問題でごたごたしないための処置だった。
それが1966(昭和41)年9月に鉄筋ビルにつくり換えた
とき、部屋の名義は横綱佐田の山のものになっていた。
これは出羽海の資金力によるところが大きいのだが、
これで九重の出羽海継承の可能性は完全になくなった。
<佐田の山>
九重は1966(昭和41)年8月から胸の疾患で入院していた。
このとき独立の腹を固めていた。この当時独立した元
若乃花の二子山、元玉乃海の片男波が弟子集め、弟子の
育成に熱心に力を入れていた。1966(昭和41)年七月場所
時点の出羽海部屋の力士は横綱佐田の山、大関北の富士、
幕内海乃山、福の花、義ノ花、小城ノ花、十両金乃花、
禊鳳などがいた。独立にあたっては連れて行く弟子の問題が
あった。当時の関取は先代出羽海と九重が連れてきた
弟子がほとんどであった。
<千代の山のブロマイド>
九重が独立した場合、同郷の北の富士、禊鳳、松前山の
気持ちを確認する必要があった。特に上京したとき九重が
わざわざ駅まで出迎えてた北の富士が重要ポイントで
あった。さらに部屋をどこにかまえるか。後援会の設立
はどうするか。この点は問題なかった。翌年の1967(昭和
42)年一月場所後、九重は秀の山(元笠置山)を通じて
独立を申し入れた。分家独立を許さずという出羽海の
不文律は九重の独立劇にどういう回答を出すか注目が
集まった。
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