分家独立を許さずという出羽海部屋の不文律を破る者が
現われた。元両国(前名松ヶ崎)の武隈である。横綱
武蔵山を連れてきた功績が少しも報われないことから
出羽海との間に確執が生まれ、郷錦・大和泉(ともに
後十両)などを連れて独立したのである。
<両国(前名松ヶ崎)の絵葉書>
出羽海は武隈を破門にした。そのため武隈部屋は立浪の
傘下に入った。その結果、系統別総当たりでは武隈部屋の
力士は出羽一門(出羽海・春日野・山分)の力士と対戦
することになった。武隈は明治大学相撲部師範として
コーチしていた関係で明大相撲部員を入門させるなど
弟子の育成に努めたが、戦後は弟子を取ることなく、
1954(昭和29)年部屋は閉鎖になった。
新入幕で優勝し、スピード相撲と連続技で最高位関脇を
という華やかな現役に比べ、最後は寂しい晩年となった。
本家出羽海部屋は春秋園事件で11人の幕内力士は復帰せず
相撲界を去った。しかし、春秋園事件直後系統別総当たり
が実施されたが、1940(昭和15)年に東西制が復活した。
そのときの出羽海の幕内は方屋25人のうち20人にまで
復活した。
春秋園事件以降入幕したのは出羽ノ花、瓊ノ浦、大邱山、
吉野岩、綾昇、九州山、綾若、出羽湊、笠置山、防長山、
伊達ノ花、五ッ嶋、安芸ノ海、龍王山、一渡、倭岩、
松ノ里、桜錦、四海波である。安芸ノ海が横綱に昇進
するのは1943(昭和18)年である。
出羽海部屋に陰りが見え始めたのは戦後の混乱期である。
1945(昭和20)年秋場所9人。立浪が6人だから比較
多数ではトップではあるが、これ以降方屋の大多数と
いう形はなくなっていた。豊嶋にいたっては戦災死して
いる。この場所は応急処理した両国国技館で晴天10日間
興行であった。これ以降国技館は占領され、しばらくは
興行的支柱を失う時代が続く。
<両国(前名国岩)の絵葉書>
そんな中、元両国(前名国岩)が出羽海を約25年務め、
1949(昭和24)年1月死去した。74歳であった(当時は
定年制がなかった)。出羽海の後継はまたも迷走する
のであった。
記事をお読みいただきありがとうございます
よければこちらをクリックいただけると幸いです。”土俵の目撃者”
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
相撲 ブログランキングへ
にほんブログ村
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑