大相撲

大阪場所の変遷2

2015年3月8日

戦後大阪場所が復活したのは1948(昭和23)年10月で
あった。東京は2年前に国技館を占領軍に接収され、
1年前に日本人の立入り禁止となった。この年夏場所は
前年に引き続き明治神宮外苑でおこなった。年2場所
のうちもう1場所が大阪だった。大阪の福島にある協会
所有地に1万5000人収容できる仮設国技館を建て、10月
15日から11日間開催した。大阪の本場所は17年ぶりで
あった。優勝は横綱を目指す東富士と関脇増位山との間で
優勝決定戦になり、増位山がうっちゃりで初優勝した。

翌年の1949(昭和24)年から春・夏・秋と年3場所制に
なった。また夏場所から15日制が復活した。秋場所は
前年同様大阪福島公園仮設国技館で10月9日から15日間
開催された。横綱前田山が5連敗で途中休場して帰京
した。横綱照国、大関増位山も途中休場して盛り上がりに
欠ける場所になった。そんななか横綱前田山が後楽園球場
の日米野球観戦に行き、サンフランシスコ・シールズの
オドール監督と握手する写真が新聞に載った。休場中の
横綱が野球観戦とは不謹慎だ、ということで前田山は
引退に追い込まれることになった。世にいう前田山シー
ルズ事件である。優勝は新大関の千代ノ山が初めて賜杯を
抱いた。
 前田山
<前田山のブロマイド>
 
これまで福島公園仮設国技館で開催した大阪場所だが、
交通の便が悪かったので1950(昭和25)年は阿部野に
移して仮設国技館での興行となった。新番付が発表に
なった9月11日に関脇力道山が突如髷を切って廃業した。
また、この場所から仕切り制限時間が幕内4分、十両3分、
幕下以下2分となった。現行制度はこの場所から始まった
ことになる。優勝は横綱照国と関脇吉葉山との間で優勝
決定戦になった。照国が勝って横綱18場所目にしてよう
やく初優勝を達成した。
照国
<照国のブロマイド>

阿部野の地は1回契約のため、1951(昭和26)年協会は
新たな開催地を見つけなければならなかった。そんな時
大阪府が難波に体育館を建設する計画があり、協会に
話を持ち込んできた。協会は建設に協力するとともに
その地に仮設国技館を建てて9月16日から開催した。
千代ノ山が新横綱として登場したが、不振。横綱東富士
が4度目の優勝を成し遂げた。
ブロマイド東富士
<東富士のブロマイド>
 
大阪府立体育館の完成とともに1953(昭和28)年3月、
大阪で本場所が開催された。以降3月・大阪府立体育館
というカタチで現在まで続いている。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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