若碇が藤ノ川に改名した。この藤ノ川という四股名がどれほど認識
されているのか。伝統的な四股名というがどんな伝統なのか。期待
が大きいという見方は適切なのか。改めて検証してみる。
まず伊勢ノ海部屋を通してみていく。江戸時代から脈々と続いた部
屋と言われるが、厳密には、部屋は途中で絶えている。再興し、現
在につなげたのが前頭筆頭の柏戸秀剛である。横綱柏戸の師匠であ
る。

柏戸秀剛の入門は春日山(元藤ノ川雷五郎)部屋であった。この藤
ノ川雷五郎が2代目藤ノ川である。大正時代の力士で最高位関脇だ
が1場所限りであった。関脇では全敗している。幕内在位16場所
(年2場所制)で59勝87敗6分預11休であった。

柏戸秀剛の最初の四股名が藤ノ川であった。3代目藤ノ川であった。
途中伊勢ノ海部屋を再興した元4代目柏戸宗五郎の部屋に移籍して
いる。このとき四股名を柏戸に改めている。
この4代目柏戸宗五郎が初代藤ノ川である。最高位は前頭2枚目で
あった。明治前期の力士であった。柏戸としては7代目にあたる。
師匠伊勢ノ海の死後はさらに錦島(元大蛇山)部屋に移籍している。
3代目藤ノ川こと柏戸秀剛の最高位は前頭筆頭であった。引退後部
屋を再興した元柏戸秀剛の伊勢ノ海は横綱柏戸を育て理事にまでな
った。
彼の死後、弟子の藤ノ川豪人が部屋を継いだ。4代目藤ノ川である。
最高位関脇、殊勲1回敢闘2回技能4回受賞している。今牛若丸と
いわれ、横綱・大関にとっては嫌な相手だった。

彼の元にアマ強豪の服部が入門してきた。服部が5代目藤ノ川であ
る。だが腰痛のため大成せず、最高位前頭3枚目で終わっている。
定年が近くになったとき、弟子の北勝鬨に部屋を譲って今日に至っ
ている。
初代藤ノ川→4代目柏戸宗五郎(最高位前2)
2代目藤ノ川雷五郎(最高位関脇)
3代目藤ノ川→柏戸秀剛(最高位前1)
4代目藤ノ川豪人(最高位関脇)
5代目藤ノ川祐兒(最高位前3)
こうしてみると藤ノ川はビッグネームとまでは言い切れない。若碇
は父の大碇にちなんでつけられた四股名である。また、これまでな
れ親しんだ四股名でもある。藤ノ川への改名はそれらに逆行するも
のである。
