優勝制度は大正15年に始まった。それととも
に不戦勝不戦敗制度、取り直し制度が整備
されていった。国技館開設とともに始まった
のは時事新報社による幕内最高成績者の写真
額を国技館に掲げる制度である。現在年間
最多勝の変遷を執筆中だが、そこからは逆に
年間最多勝とは無縁の横綱も浮かびあがって
きた。
戦前では武蔵山、男女ノ川である。武蔵山は
休場が多く、男女ノ川は大関・横綱での優勝
はなかった。安藝ノ海は年間最多勝力士に
なっているが、関脇のときである。
戦後、東富士、吉葉山、鏡里は年間最多勝
力士にはなっているが、大関以下で、である。
前田山は横綱になったもののさんざんな成績
しか残していない。年間最多勝と無縁の横綱
である。昭和最弱横綱は武蔵山か前田山かと
いわれるほどである。戦前横綱に昇進した
照國は戦後年間最多勝力士になっている。
朝潮は、年間最多勝はおろか、次点にさえ
なったことがない。当時は巨人伝説があり、
朝潮への期待は大きかった。だが、強い朝潮
と弱い朝潮が常に同居し、ついに花開くこと
はなかった。年間最多勝はおろか、次点に
さえなったことがないのは栃ノ海も同様で
ある。頭からあたって両前褌を取り、拝んで
出る寄り、出し投げは技の手本であった。
椎間板ヘルニアと右上腕筋肉断裂で勝てなく
なった。悲劇の横綱であった。
年間最多勝に無縁の横綱に琴櫻がいる。実は
琴櫻ほど横綱になられたら迷惑と思われた
力士はいない。大関時代はたよりにならない
だけでなく、無気力相撲で注意を受けている。
観察委員はあんに途中休場をほのめかしたが、
琴櫻は応じなかった。また大関で連続優勝
したときが32歳で、先があまりないと見られ
ていた。事実短命で終わっている。
(この項目続く)
早寝早起き。
興味深いテーマをこれからもお届けします。