大相撲

昭和20年からの初日千秋楽の曜日

2021年8月29日

昭和20年夏場所は軍部の命令で開催された。
東京健在を示すのが目的であった。物資の
乏しい時代で塩、紙、桶、柱がなく、そろ
えるのはたいへんな苦労をともなった。場所
はわずか7日間。天井をぶち抜かれ、破損
された国技館で十両以上の取組が実施された。
幕下以下は春日野(元栃木山)部屋でおこ
なわれた。初日木曜、千秋楽水曜だが、非公
開なのであまり関係なかった。

昭和20年8月15日終戦を迎えた。国技館は
焼けたただれ、応急処置はしたものの、雨の
日は興行できなかった。その中で11月に秋
場所が開催された。この場所は16尺の土俵が
使用されたが、力士からは不評で1場所で
15尺に戻された。千秋楽は日曜の予定だった
が、雨で順延が1日あり、月曜にずれた。

<旧両国国技館の絵ハガキ>

国技館は占領軍に接収され、メモリアルホー
ルに改称された。協会は再三使用を申しいれ、
11月に借用できることになった。昭和21年
秋場所は13日間開催されることになった。
初日水曜、千秋楽月曜であった。ただ、人気
はいまいちだった。これがやがて記者の知恵
を借り、優勝決定戦制度、東西制から系統別
へ、三賞制度へと展開していくことになった。

相撲協会はメモリアルホールの使用を願い
出たが、ついに許可されることはなかった。
接収されていた明治神宮外苑相撲場の使用が
許可された。明治神宮外苑相撲場の晴天興行
が22年夏場所から23年夏場所まで3場所開催
された。いずれも雨天にあい、千秋楽は順延
となっている。

<明治神宮外苑相撲場絵ハガキ>

15日制が定着したのは昭和24年の夏場所から
であった。ただし、初日・千秋楽日曜はまだ
定着していなかった。初日土曜、千秋楽土曜
もしばらくあった。それでは初日日曜、千秋
楽日曜はいつから定着したのか。これがおわ
かりならあなたは相撲通である。それは蔵前
国技館が完成した昭和29年秋場所からである。
ここから始まり、昭和天皇が亡くなられ、
喪に服したとき以外は現在にいたっている。

<蔵前国技館絵ハガキ>

古いしくじり先生の録画をみました。
興味深いテーマをこれからもお届けします

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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