照ノ富士が横綱に昇進したことで、師匠の
伊勢ヶ濱(元旭富士)は2人の横綱を育てた
ことになる。最初の横綱はいうまでもなく
日馬富士である。日馬富士は小さいころから
面倒を見てきた直弟子である。
照ノ富士は元2代目若乃花の間垣に入門した。
四股名は若三勝であった。2011年技量審査
場所で前相撲をとっている。間垣は体を悪く
していた。脳出血の後遺症で指導、部屋経営
がままならなかった。間垣が託したのは同郷
(青森)の元旭富士であった。十両昇進と
ともに照ノ富士に改めた。ケガのため、序二
段にまで落ちた照ノ富士を横綱にまで育てた
のはまさに伊勢ヶ濱の手腕であった。
横綱が実質地位化したのは常陸山以降である。
その常陸山は出羽ノ海として(当時はノの字
があった)一代で部屋を大きくした。横綱と
して大錦、栃木山という2人の強豪横綱を
生んだ。「おい、あの小さいのはなんという
のだ。あんなのうちの部屋にいたのか」と
栃木山の成長に注目するようになった。当時
弟子は100人以上いたから把握しきれなかった
面があった。もう少し長生きしていれば、
大関常ノ花の横綱も見届けられただろうに。
惜しかった。
元常陸山の出羽ノ海が46歳という若さで亡く
なると部屋を継いだのが元両国=前名国岩で
あった。出羽海が番付の方屋を独占したのは
元両国の出羽海のときである。彼の元から
武蔵山・安芸ノ海の2人の横綱が誕生した。
しかし、武蔵山は休場が多く、安芸ノ海も
横綱優勝はなかった。
ほぼ同時期、元緑嶋の立浪は無敵双葉山と
強豪羽黒山という偉大な横綱を育てている。
双葉山は69連勝という今でも破られない記録
を年2場所の時代に達成している。相手が
立てばいつでも立つ立ち合いは超人的であっ
た。双葉山がいる間は二番手であった羽黒山。
彼が頭角を表わしたのは戦後であった。双葉
山は立浪一門に属することなく、時津風一門
を起こしている。
そして時代は戦後へと移っていく。
(この項目続く)
女子サッカーを見ました。
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