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一人大関の時代

今年(H29年)の一月場所、大関は4人いた。
稀勢の里が横綱に昇進し、琴奨菊が関脇に
落ちて、三月場所・五月場所は大関が2人に
減った。そこへ五月場所後に高安の大関が
確定し、七月場所は3大関となる。3大関の
中から将来2人が早い時期に横綱に昇進すれ
ば、一人大関もあり得ることになる。一人
横綱はよく知られているが、一人大関となる
と意外と認識されていない。一人大関はどの
くらいあったのか、看板大関がいた江戸時代
を別にして、明治以降を調べてみた。
一人大関A
明治29年3月、小錦に吉田司家から横綱が
免許された。この時代、横綱は番付上に存在
したが、大関より上の地位という認識には
いたっていなかった。大碇が大関から関脇に
降格したため、大戸平が見かけ上大関一人に
なった。
なお大関は東西に2人いなくてはならない、
ということで横綱に大関を兼任するカタチで、
番付では横綱大関と書かれた。兼任といって
も実際は特別なことをするわけではなく、
マネーも2人分受け取れるわけではない。
あくまでも、番付の見かけ上である。大関が
一人、あるいは不在のとき、横綱のところに
横綱大関と書かれることは、昭和になっても
続いた。
横綱大関
<横綱大関の文字がある番付>

明治37年夏、常陸山、梅ヶ谷が同日横綱に
昇進して、大関不在が3場所続いた。常陸山、
梅ヶ谷から実質上横綱の地位化が始まった。
先人の横綱大砲が張出にまわされている。
横綱を地位として明文化されたのは、明治
42年2月のことである。
琴ヶ浜
<琴ヶ濱のブロマイド>

表を読み解くと、一人大関の時代は21場所、
大関不在は4場所あることがわかる。戦後
琴ヶ濱が3場所連続一人大関を経験している。
貴ノ花は2期に渡って一人大関がある。千代
の富士は一人大関を経験するも、自ら横綱に
なった結果、大関不在をつくっている。

貴ノ花花
<大関在位50場所の貴ノ花>

結局、一人大関が一人横綱ほどインパクトを
もたないのは、いずれも短期間で解消されて
いるからである。大関が一人のときは、次の
大関昇進は甘い成績で上がる傾向があるから
解消が早いとも言える。なお、平成になって
から、一人大関の時代はまだない。

冷蔵庫の調子がいまいちです。

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よしなに
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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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