6場所制の申し子大鵬の出現は、将来横綱に
なるのが間違いないほどの逸材であった。
入幕した場所に優勝し、大関に昇進した。
しかし、大関で連続優勝し、新横綱で優勝
しても1場所平均12勝となる1年間72勝に
届かなかった。翌場所も優勝し、4連覇して
ようやく74勝16敗で72勝を超えた。
72勝以上の成績をあげていった。この間第一
次6連覇を達成している。また、80勝以上を
6度、しかも連続で成し遂げている。しかし、
昭和39年七月場所の途中休場で記録はストッ
プした。
昭和39年七月場所の途中休場で記録はストッ
プした。
このあと、昭和40年五月場所の休場もあり、
1年間の成績が72勝以上になったのは、昭和
40年七月場所までの1年間の74勝16敗、九月
場所までの1年間の72勝18敗である。ともに
不戦敗1を含む。昭和41年一月場所の全休が
あり、再び1年間の成績が72勝以上を超える
ことはなくなった。
1年間の成績が72勝以上になったのは、昭和
40年七月場所までの1年間の74勝16敗、九月
場所までの1年間の72勝18敗である。ともに
不戦敗1を含む。昭和41年一月場所の全休が
あり、再び1年間の成績が72勝以上を超える
ことはなくなった。
覇とともに訪れた。それも自身最高成績の
84勝6敗を3場所連続で達成した。昭和42年
一月場所までの1年間、三月場所までの1年
間、五月場所の1年間である。このあと大鵬
は6場所フル出場することはなく、これが
最後の記録となった。
相撲であった。破壊力は抜群だが、落とし穴
も多く安定した成績につながらなかった。
勢い余って土俵下に落ちて、ケガで休場する
こともあった。それだけに1年間の成績は、
大関から横綱にかけて、1年間の成績は60勝
台が多かった。唯一の72勝以上は昭和41年
九月場所から翌年の七月場所の73勝17敗で
ある。柏戸最後の5回目の優勝はこのときの
七月場所であった。
技能派栃ノ海は綱の重さにつぶされた横綱で
あった。それだけに1年間72勝以上の成績が
あるか微妙だったが、1度あった。昭和38年
九月場所から翌年の七月場所である。大関
3場所、横綱3場所のとき72勝18敗の成績を
あげている。このときが栃ノ海にとって一番
いい時期だった。
大鵬の壁に阻まれた佐田の山は、努力と部屋
(出羽海)のバックアップで横綱に昇進した。
大鵬との対戦は勝っても負けても熱戦だった。
佐田の山が1年間72勝以上あげたのは、昭和
39年七月場所から翌年の五月場所で、73勝17
敗を達成した。大関3場所、横綱3場所で
あった。その後4場所連続72勝以上を成し
遂げたが、それが最後でもあった。この後の
横綱時代の1年間の成績はすべて60勝台で
終わっている。
名古屋圏の相撲仲間から連絡があった。
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