時代を築いた横綱の大関時代をみていこう。
常陸山は在位2年間4場所で9割台の勝率をあげて
いる。9割台は栃木山と2人しかいない(ともに東西制
での成績)。常陸山は常に油断なくをモットーに相撲を
取っていた。先輩横綱に大砲がいるが、大関時代は2勝
1分と勝ち越している。
太刀山は新大関の場所7日目(10日制)碇潟に負けて以降
引き分け4、預かり2、対戦相手休場による「や」扱い1
をはさんで43連勝している。大関4場所のうち後半2場所
を優勝しているが、これが5連覇の途中であった。太刀山
は大関時代から実質第一人者であった。
栃木山は大関在位2場所で連続優勝、5連覇の途中で
あった。成績は9勝1預かり、10勝だから敷島戦の1預
かりがなければ完全だった。大関時代は100キロに満たず
97キロだった。栃木山が小兵の強豪というイメージが
あるが、当時は平均体重が100キロを切っていた。
常ノ花はスピード出世という点では出羽海の先輩横綱
大錦、栃木山には及ばないが、相撲は華やかだった。
また、大関昇進時23歳と若かった。大関時代はいきなり
全休でスタートした。いい成績とぎりぎりの勝ち越しや
五分の星などが混在しながらも横綱昇進を決めた。
玉錦ほど大関時代不遇だった力士はいない。3連覇しても
横綱になれなかったのだ。1930(昭和5)年10月から翌年
3月までで、大関2場所目から4場所目までのことである。
当時は常ノ花が1930(昭和5)年夏場所で引退、宮城山が
翌年春場所引退で横綱は不在だった。こんな力士前にも
先にもいない。玉錦の素行に問題があったというが、
玉錦は絶対横綱になってやるという固い決意を持って
いた。
双葉山にとって大きな壁は横綱玉錦一人であった。双葉
山はこの相手に6連敗していたが、地力をあげることで
突破した。関脇時代玉錦と優勝を争いして直接対決を
制して全勝優勝した。向かえた翌場所新大関全勝優勝
(玉錦途中休場)、大関2場所目再び玉錦を撃破して
全勝優勝を達成した。このあと双葉山は玉錦に2勝して
もう負けることはなかった。双葉山の大関在位2場所
勝率10割は年6場所時代では絶後になるかもしれない。