横綱になれる大関、照ノ富士はいつ横綱になるか。それを
探るためにまず、先輩横綱はどれくらいの大関在位で
横綱になったのか。そのときの成績は。実質、横綱が
地位化した常陸山以降鶴竜まで49人の横綱の大関時代の
成績を調べてみた。なお大阪横綱は別団体のため含まれて
いない。また、引き分け、預かりは0.5勝0.5敗として
計算した。引き分け、預かりを除外すると1勝9分と
10勝がともに勝率10割となり、どうみても不合理にしか
うつらないからである。
<大関に昇進した照ノ富士>
大関時代の成績を比較するといっても、時代によって
制度上の違いは大きい。優勝制度は1909(明治42)年
6月より時事新報社が幕内最高成績者の額を国技館に
飾ることからスタートした。従って常陸山、梅ヶ谷の
大関時代は優勝制度はない。そこに記した数字は幕内
最高成績の回数である。
当たり、部屋別総当たりとあるが、部屋別は1965(昭和
40年から実施された。現在も行われている部屋別総
当たりが一番強豪と対戦することになる。これに該当
するのは横綱の大関時代では北の富士以降である。
40年から実施された。現在も行われている部屋別総
当たりが一番強豪と対戦することになる。これに該当
するのは横綱の大関時代では北の富士以降である。
次に大きいのは不戦勝不戦敗制度である。協会制定の
優勝制度が1926(大正15)年に始まるとともに協会は
不合理な制度をなくしていった。その1つが不戦勝不戦敗
制度である。この制度ができる以前は対戦相手が休場
すると自分も休み扱いにされた。常陸山・梅ヶ谷。太刀山・
鳳の休場には対戦相手休場による休み扱いが1つ含まれて
いる。常ノ花の大関時代までは不戦勝不戦敗制度はなか
った。不戦勝不戦敗制度は1927(昭和2)年10月から
開始された。
ほかにも1925(大正16)年11月に正式決定した取り直し
制度がある。これ以前は預かりや無勝負になるケースが
あった。仕切り制限時間と仕切り線の設定は1928(昭和3)
年春場所からラジオ中継開始とともに始まった。それ
以前は仕切りは無制限、仕切り線はなく、頭と頭、まるで
牛の角の突合せのような立ち合いもあった。これはいずれ
も玉錦の大関時代以降施行された。
1931(昭和6)年4月29日の天覧相撲を契機に13尺土俵
から15尺土俵へと拡大したこともあった。玉錦の大関
時代の途中からである。こうした様々な変更があった
ことを頭に置いた上で数字をご覧いただきたい。大関
在位が少ない順に順位を、勝率が高い順に順位をつけたが、
制度が異なるのであくまで便宜的参考としての位置づけ
である。
それでも双葉山の大関在位2場所、勝率10割、優勝2回は
これ以上、上がない完璧さである。双葉山は69連勝の途上で
その前の関脇時代にも全勝している。これに次ぐのが
栃木山で大関在位2場所、優勝2回だが、1預かりが響いて
勝率で及ばなかった。
<双葉山のブロマイド>
時代を築いた横綱の成績は、また3連覇しながら横綱に
なれなかった大関、大関在位が長かった大関などを次回
からみていく。
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