前理事長だった放駒(元大関魁傑)が五月場所中に亡く
なられた。まだ66歳という若さであった。理事長時代は
八百長発覚で難しい舵取りをすることになったことは
よく知られている。八百長問題は現役時代クリーンな
魁傑でなければで対処できなかった問題である。
さて、魁傑とは現役時代どんな力士だったのか。魁傑は
日大を中退して1966(昭和41)年に花籠部屋(元大ノ海)へ
入門した。大学では柔道部に所属していた。段位は3段で
柔道王を目指していたが、花籠親方の熱心な勧誘と日大
体育局の後押しで相撲に転進した。輪島が2年連続学生
横綱として花籠部屋に入ったのは1967(昭和45)年だから
入門は約2年4カ月早い。
輪島が2場所連続優勝で幕下を突破し、十両4場所で
入幕したころ、魁傑は花錦の四股名で十両に低迷して
いた。それでも魁傑の評価は高かった。「あの体だ。
大物になる素質がある」「稽古量は輪島より多い」。花籠
親方は「輪島だけでなく、魁傑も取り上げてよ」とマス
コミに伝えていた。
魁傑が一躍脚光を浴びたのは1972(昭和47)年三月場所
前頭7枚目のときである。それまで大相撲はプリンス
貴ノ花、押し一筋の大受、蔵前の星輪島に将来性と期待が
かかっていた。この場所魁傑はあれよあれよという間に
優勝戦線に躍り出て、上位の横綱北の富士、大関清国、
関脇長谷川を倒して12勝をあげ、優勝決定戦に進出した。
長谷川との優勝決定戦に敗れはしたものの魁傑ありを
印象付け、将来は貴ノ花、輪島、魁傑の阿佐ヶ谷勢3人で
優勝を独占するのではないか、とまで言われた。余談
だが、この場所大関清国対関脇長谷川戦、関脇輪島対
関脇三重ノ海戦がなぜか組まれなかった。
魁傑を語る上で欠かせないのは2度の大関昇進と2度の
陥落である。一度大関を陥落した力士が再度好成績を
続けカムバックした不撓不屈の魁傑に誰もが拍手した。
魁傑は「休場は試合放棄」と負けが込んでも休まなかった。
この言葉は当時相当のインパクトをもって受け止められた。
これまで横綱・大関は負けが込むと休場があたりまえで
あった。この悪しき因習に誰もがすっきりしないものを
感じていたのを魁傑が一掃した。
魁傑で忘れられないのが、2度目の大関陥落後の3場所
目の1978(昭和53)年三月場所での大関旭国との死闘で
ある。2度の水入りで勝負がつかず、1番後取り直し
(通常は2番後だが残された取組は1番だった)。取り
直しの一番も水入りかと思われた直後、魁傑のすくい投げ
がきまり、熱戦に終止符をうった。打ち出しは18時20分を
過ぎていた。
魁傑は終始クリーンであった。この1点だけで高く評価
できる。ほかのスポーツではあたりまえのことが相撲界
ではそうはいかない。片八百長(打ち合わせはないが、
一方が気を利かせて負けてやること)でさえあってほしく
ない。魁傑は親方として横綱大乃国を育てた。千代の富士
の連勝を止めるのはガチンコの大乃国しかいないと見られ、
その通りの結果となった。魁傑のクリーンさが弟子から
孫弟子へと伝わっていくことを願ってやまない。