今年残り2週間ほどに迫った師走のなか、元寺尾の
錣山が死去した。入院していたことは耳にしていた
が、不整脈で容体が急変したため帰らぬ人となった。
17日午後8時27分、入院先の病院で寺尾の瞳は永遠
に閉じられた。まだ60歳だった。寺尾は井筒3兄弟
の末っ子だった。次男逆鉾の井筒は58歳、長男鶴嶺
山は60歳で亡くなっている。
寺尾は回転の速い突っ張りで関脇までかけあがった。
小結6場所、関脇7場所務めた。三賞は殊勲賞3回、
敢闘賞3回、技能賞1回であった。金星は7つであ
った。大関戦24勝107敗、横綱戦10勝69敗であった。
寺尾という四股名は母の旧姓であった。父元鶴ヶ嶺
は分家独立し、君ヶ浜部屋を創設した。ところが九
重系になっていた井筒の年寄名を昭和52年12月に入
手した。元鶴ヶ嶺は部屋づくりに忙しい日々をおく
っていた。それを支えたのが蔵前小町と呼ばれたお
かみさんであった。当時NHKアナウンサーだった
北出清五郎氏は、忙しすぎて痩せたのではと思った
ほどだと言う。
その北出氏は著書「土俵に賭けるハートワーク」
(世界文化社刊)で病院でのおかみさんの様子をこ
う書いている。「親方、帰りたい。部屋に帰りたい。
若い衆は元気?ウチの子供たちは稽古してる?ねえ、
いつ帰れるの?」おかみさんは親方の顔を見ると
「帰りたい」が口ぐせだった。
しかし、フッと言わなくなった。のちに「悟ったん
でしょうな、もうだめだって」半袖シャツの親方が
ポツンと一人、奥の部屋に座り、そう言ったことが
ある。(中略)五十四年、夏場所。千秋楽を待って
いたかのようにおかみさんは亡くなった。場所中に
は逝くまい、彼女はそんな心配りをしたのであろう
か。
寺尾はこのとき、まだ学生であった。母に何か言わ
れていたのであろうか。病名を知らされずに最愛の
母を失った通夜で寺尾は入門を決意した。寺尾とい
う四股名は母の旧姓から取った思い入れがとてつも
なく深い深い名前なのである。
錣山部屋は弟子の元豊真将の立田川が継ぎそうであ
る。さようなら寺尾、やすらかに。