ニ所ノ関一門の繁栄は分家を奨励し、弟子の育成を
はかってきたことにある。この方針は元玉ノ海の二
所ノ関のとき、打ち出された。部屋持ちにならない
とおべっかを使うことになる光景に嫌気をさし、弟
子の光は七光にした。
戦後、元大ノ海の芝田山のち花籠はその方針のもと
で独立した。栃錦とともに時代を築いた若乃花をス
パルタで名横綱に育てた。若乃花の稽古はすさまじ
く、目にした者はその後どんな稽古を見ても驚くこ
とはなかった。ほかに若ノ海、若秩父、若三杉(の
ちの大豪)、若ノ國、若天竜、若駒などを育てた。
彼らは七若と呼ばれた。
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花籠部屋は一時期竜虎しかいないときがあった。だ
が、花籠部屋は再び黄金時代を迎えた。花籠が2人
目の横綱を育てたのは初代若乃花から約15年4カ月
後であった。2年連続学生横綱の横綱輪島が誕生し
た。今でも唯一の学生出身横綱である。大学は日大
である。
花籠はさらに日大中退柔道部の魁傑を大関にした。
輪島の2年後輩日大相撲部の荒勢を関脇に育てた。
ほかに日大の大ノ海がいた。
花籠が定年を迎えた場所で輪島が引退した。輪島は
花籠部屋を継いだ。1981年3月であった。師匠の先
代花籠は約半年後に急逝した。
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引退後の輪島はスキャンダルの連続だった。師匠の
娘と結婚したが、家庭内がうまくいかず、嫁が自殺
未遂をおこし、協会を唖然とさせた。部屋には住ま
ず、近くのマンションから部屋に通うありさまだっ
た。
だが決定的だったのが、年寄名跡を借金の担保にし
たことである。妹のちゃんこ店経営失敗のため、借
金を申し込んださい花籠の株を提供したのである。
そのため、協会を追われることになった。
小結まで育てた花乃湖に部屋をゆずろうとしたが、
かなわなかった。部屋の力士は元魁傑の放駒部屋へ
移ることになった。なお、年寄株を担保にした者は
ほかにもいた。元金剛のニ所ノ関だが、輪島ほど厳
しい処分にはなっていない。
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輪島は離婚し、協会を去った。こうして輝かしい歴
史の花籠部屋は消滅した。