大相撲

大相撲の疑問

★優勝制度はいつ始まったのですか。

優勝制度は大正15年に始まりました。優勝制度を設け
ることで2つの案件を改正しなくてはならなかった。
1つは不戦勝不戦敗制度。もう1つは取り直し制度で
ある。明治42年夏場所の国技館開設以降、時事新報社
が幕内最高成績者の額を国技館に掲げる制度は、別で
あった。対戦相手が休場すれば自分も「や」扱いと
なった。これでは同じ番数を取ったとはいえない。物
言いで白黒がはっきりしないと預かりになった。

<大正15年優勝制度とともに渡されるようになった賜杯>

新聞社の制度は不備の中のモノであり、大衆の関心は
なかった。幕内最高成績で相手方の休場によるものを
含む成績が以下である。

明治43年春 横綱常陸山7勝0敗2分1相手方休場
大正2年春 大関鳳 7勝0敗1分1預1相手方休場
大正3年夏 前14両国 9勝0敗1相手方休場 
ただし両国は小結までしか対戦していない。実質は
横綱太刀山の8勝0敗1預1相手方休場のほうが上で
ある。
大正5年春 西ノ海 8勝0敗1預1相手方休場
大正8年春 栃木山 9勝0敗1相手方休場

しかし、なかには相手方休場が影響したケースがあ
る。

明治43年春 横綱常陸山7勝0敗2分1相手方休場 
      大関駒ヶ嶽6勝0敗2預2相手方休場
今日的なら不戦勝となり8勝で並んだことになる。
もう1つは次である。
大正11年夏 横綱栃木山 7勝1敗1分1相手方休場
      横綱大錦  8勝1敗1分

栃木山は対戦相手の休場に負けたのである。もっとも
個人幕内最高成績という意識が力士にどこまであった
のか。相撲ファンはまったく無関心であった。

<栃木山のブロマイド>

★大鵬の45連勝は誤審でストップしましたけれど、
修正はできないのですか。

個人的には修正すべきだと思う。過ちを正すのにはば
かる事なかれ。大鵬を押し込んだ戸田の足が出たと
控えの高鉄山が主張し、行司のうちわは大鵬にあがっ
た。ところが審判5人は戸田の勝ちを主張したのだか
ら、その目は節穴だらけだった。誤審で連勝がストッ
プなんてあってはいけないことだった。歴史的汚点は
修正されるべきだ。

<大鵬>

★番付の張出はいつなくなったのですか。

張出は番付の枠外に張出したからことからそう呼ばれ
ました。横綱・大関・関脇・小結の3人目以降が対象
となる傾向がある。なくなったのは平成6年七月場所
からである。番付に記入事項増えて外枠に余裕がなく
なったことが要因になった。

<番付の外枠の突出が張出>

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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