大相撲

消えた横綱の相撲部屋4

伊勢ヶ濱部屋は清瀬川がのちに所属した楯山
(元友響)部屋から部屋ごと譲りうけたとき
の名称である。この部屋を継いだのが元横綱
照國であった。師匠存命中は荒磯部屋という
名称だったが、のちに伊勢ケ濱部屋とした。
大関清國はじめ関脇開隆山、小結黒瀬川、
平幕清ノ森・浅瀬川・天水山・和晃(かつ
ひかり)照櫻など多くの力士を育てた。しか
し、元横綱照國の伊勢ヶ濱は昭和52年3月、
急性心筋梗塞によって急死した。まだ58歳で
あった。

<照國のブロマイド>

急遽部屋を継いだのが弟子の元清國であった。
元清國の伊勢ヶ濱ほど親方人生で不幸な目に
あった者はいない。昭和60年8月12日の飛行
機墜落事故で妻と2人の子供をいっぺんに
失った。白山にかまえた部屋の土地が詐欺に
あってしまった。そのため、新たに相撲部屋
を創設することになり、とてつもない苦労を
することになった。

元清國の伊勢ヶ濱は定年を控え、部屋の後継
者がいなかった。暫定的に元和晃が継いだ
ものの、彼も定年が近かった。部屋は衰退
していたし、継承を断念した。元照國の部屋
はこうして消滅した。伊勢ヶ濱は元旭富士の
安治川に渡したが、これは部屋名を改称する
だけのものであった。

<清國のブロマイド>

時津風部屋は双葉山が、立浪(元緑嶋)部屋
から双葉山相撲道場として独立した後改称
した部屋である。昭和43年、元双葉山は現役
の理事長のまま56歳という若さで急逝して
しまった。

突然の師匠の急死にあい、部屋の後継者を
決めなければならなかった。そこで元横綱で
あり、部屋の古株の元鏡里が後継者に指名
され時津風となった。ところが、元双葉山の
未亡人が、主人の意向は元豊山であるという
趣旨の発言をした。元豊山は引退したばかり
であった。そういうことならと元鏡里は時津
風を降りた。

<豊山>

時津風部屋の師匠は元豊山、先輩元鏡里は
立田川として部屋付きの親方時代がしばらく
続いた。ところが2年後、弟子は引きぬく
ことなく、部屋の親方4人を連れて立田川
部屋を創設することになった。ゼロからの
出発だったが、なんとか十両力士森乃里を
誕生させた。

<鏡里のブロマイド>

部屋を引き継いだのが元青ノ里であった。
元青ノ里の立田川は敷島、十文字を育て
あげた。定年退職によって部屋は閉鎖され
ることになった。元横綱鏡里の部屋は2代
で終わりをつげることになった。弟子は
陸奥(元霧島)部屋に移籍したが、その
なかから豊桜、琉鵬、小結白馬の幕内力士
が育っていった。

<青ノ里のブロマイド>

(この項目続く)

長電話しました。             。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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