大相撲

■初 3日目照ノ富士が見せた攻め相撲の迫力

貴景勝は上位初挑戦の宇良と対戦した。貴景
勝は曲者相手のせいかよくみて押すが、宇良
まわり込んで突き合い。宇良右前褌から両
まわし取って頭をつける絶好の体勢をつくる。
宇良ひきつけて前に出る。しかし、貴景勝、
引きながら上からはたく。貴景勝重心を失っ
て崩れるも宇良も前にばったり。うちわは
貴景勝。物言いがついて協議が長引いたが、
取り直しとなった。

<貴景勝対宇良、最初の一番は取り直しに>

取り直しの一番は宇良が立ち合いに変化。
貴景勝大きく泳ぎ、そこを宇良が強烈に押し
倒した。取り直しは実力が上のほうが有利
という言葉は貴景勝には通用しないことが
判明した日となった。

<宇良、取り直しで貴景勝に勝利>

正代は大栄翔と対戦した。相撲は大栄翔の
押しをまともに受けてそのまま一気に押し
出された。限りなく無策に近い相撲となった。
正代完敗の相撲となった。正代は先場所初日
にも大栄翔に完敗している。負けて覚える
相撲かなは正代にはないらしい。

<正代、大栄翔に完敗>

照ノ富士は霧馬山を相手に得意の左上手を
引くと、一気に寄って出て土俵下までもって
いった。攻めの照ノ富士の迫力を見せつけ
られた一番であった。満点の相撲だった。

<照ノ富士、霧馬山に快勝>

メディアのなかには照ノ富士が新横綱から
3連覇すると栃木山以来の快挙になるといっ
ているものがある。これは歴史的誤りである。
栃木山の時代には優勝制度はなかった。ある
のは時事新報社による幕内最高成績者の額を
国技館に掲げる制度であった。一新聞社の
制度にすぎなかった。対戦相手が休場すると
自分も「や」扱いになった。

賜杯ができ、優勝制度ができたのは大正15年
からである。優勝制度とともに不戦勝不戦敗
制度、取り直し制度が整備されていったので
ある。

雨の日ですが、行きも帰りのやんでいました。
興味深いテーマをこれからもお届けします

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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