大相撲

殊勲賞の中身Ⅱ 6【昭和43年~44年】

大鵬は昭和42年十一月場所から5場所連続
休場した。巡業で泥にまみれ再起をはかった
大鵬は昭和43年九月場所の土俵にあがった。
初日栃東に敗れ、不安のスタートとなったが、
このあと45連勝した。それも誤審がなければ
どこまで連勝が続いたか。誤審は相撲史に
汚点を残した。昭和44年七月場所以降大鵬は
晩年に入った。

昭和43年一月場所、清國は途中休場の大鵬、
12勝3敗の玉乃を倒して殊勲賞を受賞した。
1年後の昭和44年一月場所、3大関に勝って
3度目の殊勲賞を獲得している。この年の
五月場所後、清國は大関に昇進している。
大関として登場する七月場所から大関3場所
連続負け越しの降格の規定が2場所連続負け
越しに変更された。

<清國のブロマイド>

麒麟児は大関のチャンスを逃がしていた。
それでも大関候補に変わらなかった、昭和43
年三月場所は引退横綱佐田の山と4大関を
総なめにして殊勲賞を手中にした。それだけ
ではなかった。昭和44年十一月場所、スター
トは悪かったが、再び4大関を総なめにして
殊勲賞を獲得している。これが5度目の殊勲
賞であった。

新たな上位キラーとして登場したのが栃東で
あった。春日野部屋伝統の小兵の技能派で
あった。まず、昭和43年五月場所、優勝大関
玉乃島に勝って初殊勲賞となった。大鵬が
休場明けとなった九月場所初日に土をつけて
殊勲賞を獲得した。大鵬の連勝は栃東敗戦後
に始まった。昭和44年九月場所は優勝大関
玉乃島に勝っただけだが、その1勝の価値が
認められ殊勲賞を受賞している。

<栃東>

昭和43年七月場所、若二瀬の殊勲賞は内容が
弱かった。その上大関北の富士・玉乃島戦
との対戦がなかった。十一月場所、殊勲賞が
初めて該当者なしとなった。長谷川が2大関
に勝っている。過去昭和38年七月場所の冨士
錦、九月場所の岩風も2大関を倒しての殊勲
賞だった。倒した大関の成績は、長谷川の
ほうがいいだけに殊勲賞でもおかしくなかっ
た。

龍虎が殊勲者として浮上してきた。突っ張っ
てはたくという相撲だった。「あれは技能
だよ」と元笠置山の秀の山が語っていた。
ただし、笑いながらであった。

<龍虎のレコード>

昭和44円年三月場所、龍虎の横綱・大関戦は
琴櫻戦一番である。琴櫻が優勝したため殊勲
賞となった。ただし、藤ノ川も琴櫻に勝って
おり、ほかに2大関を倒している。藤ノ川が
殊勲賞でもおかしくなかった。龍虎は翌五月
場所上位に番付を上げてきた。コンピュー
ター相撲の大鵬に予想外の相撲を取って勝ち、
殊勲賞を獲得した。七月場所は優勝清國に
勝ちながら、なぜか殊勲賞につながらなかっ
た。

時代は北の富士・玉乃島に移りつつあった。

久々に本屋に行きました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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