年間最多勝は相撲ファンが注目するタイトル
であるが、協会の制度ではないので、どこか
で忘れられてしまうところもある。特に低
レベルの年間最多勝が続くとどこか白けて
しまう。年間最多勝は年6場所とともに誕生
した節がある。しかし、1年という単位は
それ以前からあった。大正15年の優勝制度
誕生とともに、不戦勝・不戦敗制度、取り
直し制度が整備されてきた。そこで大正15年
以降の年間最多勝を調べてみることにした。
それが以下である。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/年間最多勝1A-1024x583.jpg)
大正末期から昭和の初めは横綱常ノ花が第一
人者であった。大正15年は全休があり、年間
最多勝は同部屋の常陸岩及び小野川(のちの
豊國)がついている。昭和2年は大阪相撲と
東西合併して2場所が東京、2場所が西日本
で開催されるようになった。昭和3年、横綱
常ノ花は1場所全休がありながら1場所優勝
、次点2回で横綱宮城山と並んで年間最多勝
をあげている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/常ノ花.jpg)
昭和4年から玉錦が浮上してきた。小部屋の
悲哀か玉錦が大関に昇進したのは昭和5年
夏場所であった。常ノ花は昭和5年10月場所
に、宮城山は昭和6年春場所に引退している。
それとともに武蔵山が登場してくるように
なった。武蔵山というと横綱として休場ばか
りしているイメージだが、横綱以前は玉錦に
次ぐ実力者であった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/2玉錦2-e1628756397839.jpg)
昭和7年1月、協会に改革を求める春秋園
事件がおこり、力士の大量離脱が相次いだ。
協会は場所の開催を延期したものの、満足に
取組を組めなくなった。窮余の一策として、
何人かの力士を十両から幕内にひきあげ、
系統別総当たり制に踏み切った。なお、年4
場所は昭和7年で終わっている。また協会に
残った玉錦は昭和8年に横綱に昇進した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/08/清水川絵葉書-e1628756417891.jpg)
昭和最強の大関、または昭和唯一の名大関と
いわれた清水川が年間最多勝に顔をだすよう
になった。協会に復帰した男女ノ川も年間
最多勝になっている。昭和8年から年2場所に
なった。しかし、第一人者はあくまで玉錦で
あった。
(この項目続く)
大雨が心配です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。