大相撲

横綱フル出場なしの場所4

■昭和40年代 6回のうち後半

昭和46年10月、横綱玉の海が帰らぬ人となっ
て、北の富士は一人横綱になった。一人横綱
2場所目の昭和47年一月場所、北の富士は
不調、7勝6敗から休場した。8日目には
歴史的一番となった関脇貴ノ花戦が行われた。
北の富士が外掛けから体を貴ノ花にかぶせて
きたが、貴ノ花がそり投げにいくと北の富士
は頭から土俵にいく形になり手をついた。
当時つき手かかばい手かで話題となった。

<北の富士>

行司は貴ノ花。物言いがつき北の富士の勝ち
となった。この一番はNHKのBS1で特集
されたのでご覧になった方もいると思うが、
筆者の視点は、貴ノ花の体は生き体だった。
北の富士は自分の頭をかばって手をついた
ように映った。この場所は大混乱で平幕栃東
が11勝4敗で1位になった。栃東は、大関
琴櫻戦がなかった。

https://www.tvu.co.jp/program/201302_meishoubu_sumo/

一人横綱北の富士の乱丁は続いた。三月場所
は9勝6敗。迎えた五月場所は3勝5敗から
途中休場してしまった。この場所は関脇輪島
が12勝3敗で初優勝。小結貴ノ花・魁傑が
11勝4敗と活躍した。輪島・魁傑は花籠(元
大ノ海)部屋、貴ノ花はその分家の二子山
(元若乃花)部屋だった。ともに両国を離れ、
阿佐ヶ谷に部屋を構えていた。将来優勝は
阿佐ヶ谷でまわし、両国へは渡さないという
くらい輪島・貴ノ花・魁傑は素材がよかった。

<輪島>

七月場所、一人横綱北の富士は全休した。
この場所は関脇貴ノ花と前頭4枚目高見山の
優勝争いとなった。2敗高見山と3敗貴ノ花
の差は最後までうまらず、高見山が外国人
初優勝となった。当時外国出身の幕内力士は
高見山しかいない時代だった。

<高見山を追走する貴ノ花の記事>

昭和39年、柔道は東京オリンピックでヘー
シンクに敗れ、本家の面目丸つぶれであった。
現在はないが、当時無差別級があった。相撲
よ、お前もか、というわけである。「情け
ない」と嘆く協会関係者がいた。ショックを
隠せぬ者もいた。武蔵川(元出羽ノ花)理事
長がぎっくり腰になったのは高見山ショック
のせいではないか、などとささやかれた。

<高見山優勝の記事>

結局高見山の場合は、相撲部屋で育ち、稽古
してきたのだから、ヘーシンクとはケースが
異なるということになった。また、外国人の
初優勝で君が代斉唱なのか、出身の国歌に
するのかということが、まことしやかに言わ
れた。今では考えられないが、当時は外国人
初優勝にそうとう戸惑いがあった。

(この項目続く)

魚中心の食生活です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

当サイトはブログランキングに参加しています、どうか応援をお願いいたします!

【ブログランキング】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック


【日本ブログ村】で、土俵の目撃者を応援して頂けるかたは↓をクリック
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
にほんブログ村
  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

-大相撲

Copyright© 土俵の目撃者(毎日更新) , 2024 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.