大相撲

立浪(元緑嶋)が育てた弟子たち4

2021年2月25日

戦後、占領軍によって旧両国国技館が接収
された。当初、雨よけのないオンボロ化した
旧領国国技館で開催されたが、昭和22年から
大相撲は開催地を別に設置していかねばなら
なかった。双葉山の陰に隠れた最大の力士は
羽黒山であった。昭和20年秋場所から22年
秋場所にかけて4連覇を達成している。改め
て、羽黒山が強者であことを証明している。
このころが最も華やかな時代であった。

<羽黒山のブロマイド>

羽黒山の取り口は堅実無比の手堅い相撲に
終始した。昭和26年から蔵前仮説国技館で
開催できるようになった。羽黒山は4連覇後
2度にわたるアキレス腱切断に襲われ、3場
所連続休場。出場しても優勝できなくなった。
昭和27年、最後の7回目の優勝を全勝で飾っ
た。前回の優勝から実に5年も経過していた。
横綱在位は実に12年間にもおよんだ。

<大岩山のブロマイド>

戦後昭和21年秋場所、立浪部屋から入幕した
力士に大岩山がいる。最高位は前頭9枚目で
あった。弓取り式は千秋楽のみであったが、
昭和27年から毎日行われるようになって現代
に至っている。大岩山はその弓取り式をおこ
なっていた。清恵波は昭和24年春場所 入幕
した。石川県出身だが、樺太生まれ。 最高位
前頭2枚目。元吉野山の中川親方の 女婿と
なり、引退後は中川部屋をおこすも 昭和
48年に部屋を閉じている。

<時津山のブロマイド>

時津山は最初時津風 (元小九紋龍)部屋に入門
した。だが時津風部屋は稽古に集中できる
環境ではなかった。時津山の素質から時津風
は立浪に託すことにした。時津山は昭和24年
夏場所入幕した。最高位は関脇だが、立浪
(元緑嶋)は小結まで育てた。小坂川は昭和
24年入幕した。小坂川は最初春日山(元藤ノ
川雷五郎)部屋に入門した。本名は小坂では
ない、郷土秋田県を流れる川である。昭和
17年に召集され、4年のブランクを経て復員
したとき春日山部屋はなく、立浪部屋に移っ
ている。入幕は昭和24年秋場所である。幕内
を5場所務めた。

<小坂川のブロマイド>

白い稲妻北の洋は昭和25年秋場所入幕した。
立浪の存命中はまだ前頭の下位であった。
大昇の入門は、春日山(元藤ノ川雷五郎)
部屋だった。春日山部屋が昭和21年に部屋を
閉鎖したため立浪部屋に移籍した。最高位は
前頭筆頭だが、立浪存命中は前頭2枚目まで
番付をあげた。昭和30年、元名寄岩が春日山
部屋をおこすと再び春日山に移っている。

<北の洋のブロマイド>

立浪は昭和7年以降取締であった。取締は
理事の上の役職で元力士では3人から4人
いた。昭和43年の機構改革でなくなった。
のちに立浪四天王といわれる力士が、北の洋、
時津山、安念山、若羽黒である。元緑嶋の
立浪は昭和27年12月16日に亡くなられた。
76歳であった。まだ定年制はなかった。この
とき北の洋、時津山は幕内であったが、安念
山、若羽黒はまだ幕下であった。立浪は数
多くの弟子を育て、次の羽黒山にバトンを
渡していった。

(この項目終わり)

選抜高校野球は3月19日からです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。

 

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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