戦後、占領軍によって旧両国国技館が接収
された。当初、雨よけのないオンボロ化した
旧領国国技館で開催されたが、昭和22年から
大相撲は開催地を別に設置していかねばなら
なかった。双葉山の陰に隠れた最大の力士は
羽黒山であった。昭和20年秋場所から22年
秋場所にかけて4連覇を達成している。改め
て、羽黒山が強者であことを証明している。
このころが最も華やかな時代であった。
羽黒山の取り口は堅実無比の手堅い相撲に
終始した。昭和26年から蔵前仮説国技館で
開催できるようになった。羽黒山は4連覇後
2度にわたるアキレス腱切断に襲われ、3場
所連続休場。出場しても優勝できなくなった。
昭和27年、最後の7回目の優勝を全勝で飾っ
た。前回の優勝から実に5年も経過していた。
横綱在位は実に12年間にもおよんだ。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/大岩山■.jpg)
戦後昭和21年秋場所、立浪部屋から入幕した
力士に大岩山がいる。最高位は前頭9枚目で
あった。弓取り式は千秋楽のみであったが、
昭和27年から毎日行われるようになって現代
に至っている。大岩山はその弓取り式をおこ
なっていた。清恵波は昭和24年春場所 入幕
した。石川県出身だが、樺太生まれ。 最高位
前頭2枚目。元吉野山の中川親方の 女婿と
なり、引退後は中川部屋をおこすも 昭和
48年に部屋を閉じている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/時津山 相撲カード-e1614223834212.jpg)
時津山は最初時津風 (元小九紋龍)部屋に入門
した。だが時津風部屋は稽古に集中できる
環境ではなかった。時津山の素質から時津風
は立浪に託すことにした。時津山は昭和24年
夏場所入幕した。最高位は関脇だが、立浪
(元緑嶋)は小結まで育てた。小坂川は昭和
24年入幕した。小坂川は最初春日山(元藤ノ
川雷五郎)部屋に入門した。本名は小坂では
ない、郷土秋田県を流れる川である。昭和
17年に召集され、4年のブランクを経て復員
したとき春日山部屋はなく、立浪部屋に移っ
ている。入幕は昭和24年秋場所である。幕内
を5場所務めた。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/小坂川■.jpg)
白い稲妻北の洋は昭和25年秋場所入幕した。
立浪の存命中はまだ前頭の下位であった。
大昇の入門は、春日山(元藤ノ川雷五郎)
部屋だった。春日山部屋が昭和21年に部屋を
閉鎖したため立浪部屋に移籍した。最高位は
前頭筆頭だが、立浪存命中は前頭2枚目まで
番付をあげた。昭和30年、元名寄岩が春日山
部屋をおこすと再び春日山に移っている。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2021/02/北の洋・巴潟.jpg)
立浪は昭和7年以降取締であった。取締は
理事の上の役職で元力士では3人から4人
いた。昭和43年の機構改革でなくなった。
のちに立浪四天王といわれる力士が、北の洋、
時津山、安念山、若羽黒である。元緑嶋の
立浪は昭和27年12月16日に亡くなられた。
76歳であった。まだ定年制はなかった。この
とき北の洋、時津山は幕内であったが、安念
山、若羽黒はまだ幕下であった。立浪は数
多くの弟子を育て、次の羽黒山にバトンを
渡していった。
(この項目終わり)
選抜高校野球は3月19日からです。
興味深いテーマをこれからもお届けします。