大相撲

高砂の系統6

3代高砂の後継をめぐり、綾川(前名響矢)
を支持した元浪ノ音の振分は出羽海一門へ
移籍した、と前回記述した。振分は昭和に
入って振分部屋をおこした。昭和15年1月
から、養子の玉ノ井(元陸奥錦)に弟子を
譲り、玉ノ井部屋としてスタートすることに
なった。ところが、玉ノ井は弟子を戻し、
昭和17年1月から再び振分部屋となった。
昭和23年5月まで続いた。

<浪ノ音のブロマイド>

弟子に鷹城山がいる。春秋園事件で脱退力士
が数多く出たため、双葉山同様繰上げ入幕
している。昭和7年春場所(2月)から系統
別総あたりになった。鷹城山は当然高砂部屋
の射水川と対戦している。ところが出羽海
部屋の瓊ノ浦とも対戦している。系統別で
あって一門別でないことがわかる。振分(元
浪ノ音)部屋が出羽海の分家、あるいは出羽
海の分家の分家ではないために、対戦を余儀
なくされたわけである。

昭和4年1月、元小結射水川の若松が若松
部屋を創設した。射水川はほかに戦前に入幕
した最高位前頭4枚目の高砂(元2代朝潮)
部屋出身の力士がいる。元小結射水川の若松
は鯱ノ里、若嵐らの幕内力士を育てた。だが、
昭和28年9月場所後に養子の西岩(元鯱ノ里)
に弟子を託した。

<小結射水川のブロマイド>

西岩部屋の誕生である。その後、昭和31年
2月、先代の死去にともない西岩部屋を若松
部屋に名称を変更した。元鯱ノ里の若松は
褐色の弾丸房錦、潜航艇岩風らを育てた。
協会では理事を務めた。昭和54年8月の停年
退職に伴い、婿養子の元房錦の山響に部屋を
譲った。

<鯱ノ里のブロマイド>

これまで後進の指導にあたっていた元房錦の
山響が若松部屋を継承した。だが、関取は
育たなかった。そうしているうちに病にかか
った。それが悪化したことによって部屋経営
を断念し、協会を離れることになった。平成
2年3月のことであった。

<房錦のブロマイド>

高砂部屋の元5代朝潮(初期名長岡)は山響
としてとして更新の指導にあたっていた。
元房錦の若松の離職により、元5代朝潮(初
期名長岡)が若松部屋を継承した。なお、
朝潮の代数は3代が一時期名のった男女ノ川
とし、4代は横綱朝潮(初期名米川)として
いる。若松(元5代朝潮=初期名長岡)部屋
に明徳義塾の留学生朝青龍、朝赤龍が入門
している。

さらに3代高砂(元2代朝潮)の下で分家
独立は進んだ。

(この項目続く)

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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