高砂の後継争いは2代朝潮と綾川(前名響矢)
の争いとなった。大正3年夏場所の番付では
2代朝潮は関脇で翌場所大関に昇進している。
綾川(前名響矢)は入幕2場所目であった。
なお、綾川は複数いて、江戸時代の綾川は
陣幕によって横綱免許を受けた力士にされて
しまった。また、昭和戦前にも綾川(前名
綾櫻)がいる。2代朝潮と綾川(前名響矢)
は共に現役で、二枚鑑札の形での3代高砂の
後継争いであった。結局3代高砂は2代朝潮
に決定した。
高砂の後継争いに敗れた綾川(前名響矢)は
入間川(元両国=前名国岩)部屋に移籍した。
また、最初高砂の後継に立候補し、のちに
綾川(前名響矢)を支持した元浪ノ音の振分
は出羽海一門へ移籍した。出羽海は常陸山が
引退したばかりであった。
大正5年、追手風(元綾渡り)の弟子、綾浪
源逸が湊川部屋をおこした。ここに木村一学
の若松部屋から大ノ里、八甲山が移籍した。
さらに大ノ里は出羽海(元常陸山)に、ハ甲
山は高島(元谷ノ音)部屋に再移籍したこと
は既に触れた。
八甲山はのちに高島部屋で多くの弟子を育て
た。現在の友綱(元旭天鵬)、宮城野(元
竹葉山)は元八甲山の高島部屋をルーツと
する部屋である。伊勢ヶ濱(元旭冨士)部屋
は元陸奥嵐の安治川部屋を引き継いだが、
安治川(元陸奥嵐)部屋も八甲山の高島部屋
をルーツとする部屋であった。八甲山が高島
部屋に再移籍しなければ、友綱・宮城野・
伊勢ヶ濱部屋は高砂をルーツとする部屋に
なっていたことになる。
3代高砂(元2代朝潮)のときに元太刀山の
東関から部屋の弟子を託されることがあった。
大正8年のことであった。太刀山といえば
強豪中の強豪横綱であった。それが廃業とは
どういうことか。大正8年5月29日、回向院
の協会仮事務所で選挙が実施された。投票は
全年寄、十両以上の力士・行司で行われた。
取締は出羽海(元常陸山)と友綱(初代海山)
が再選された。問題は検査役(現審判)だっ
た。元太刀山の東関は出身部屋の友綱、木村
庄之助が票まとめに動いてくれた。東関は
元常陸山の出羽海にまで頼みこんだ。開票の
結果は以下であった。
井筒(元2代西ノ海) 146票
入間川(元両国=前名国岩)142票
雷 (元2代梅ヶ谷) 126票
二所ノ関(元2代海山)125票
中立(元伊勢ノ濱) 121票
関ノ戸(元逆鉾) 120票
阿武松(元紫雲竜)111票
峰崎(行司木村銀治郎) 107票
伊勢ノ海(元小結柏戸) 107票
花籠(元荒岩) 99票
次点
東関(元太刀山)86票
元太刀山の東関は選挙に敗れたのである。
現役時代の栄光と名声は、相撲村では思い
がけず不人気だったのである。選挙の翌日
失意の元太刀山の東関は、離職を申し出た。
協会は留意したが、元太刀山の東関の意思は
固かった。こうして3代高砂は東関の申し出
により、弟子を引き受けることになった。
そのなかから大関太刀光、太刀ノ海、太刀若
らが育っていった。なお、現在は審判の選挙
はない。
(この項目続く)
高砂の系統2、4の系統図に若干加えました。
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