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高砂の系統1

高砂の系統は正確性から難しいテーマとなる
だけにこれまで発表を控えてきた。だが、
いつまでもそれではいけない、と明らかに
していくときがきたようである。高砂部屋
から何をイメージするだろうか。突き押しの
パワー相撲力士=前田山、朝潮(前名米川)、
ハワイの高見山、前の山、富士桜、朝潮(前
名長岡)、小錦などか。最近では、お騒が
せ横綱朝青龍、現在は新大関朝乃山のイメー
ジであろう。

<朝青龍 旗手朝赤龍>

高砂部屋をルーツとする分家は東関(元高見
盛)部屋、錦戸(元水戸泉)部屋、錣山(元
寺尾)部屋、陸奥(元霧島)部屋、高田川
(元前の山→元安芸乃島)部屋である。二所
ノ関の系統、出羽海の系統よりやや少ないと
思うかもしれないが、実は高砂部屋の分家は
誕生しては閉鎖(消滅)する歴史でもある
のだ。名門高砂の系統はどのような歴史を
辿ってきたのか。改めて振り返ってみよう。

高砂部屋の始まりは風雲児高砂浦五郎からで
ある。どの辺りが風雲児か。時代は藩のお抱
え力士であった江戸から廃藩置県が実施され
る明治への変遷期であった。相撲会所(日本
相撲協会の当時の呼称)のナンバー1筆頭
玉垣、ナンバー2筆脇伊勢ノ海五太夫であっ
た。その専横ぶりは力士への支給なしや番付
のいいかげんさに表われていた。

<高砂浦五郎>

玉垣は前身が判明せず、謎の人物とされて
いる。力士時代はたいした地位でなかった
とか、名目で番付に名を載せ、実質力士で
なかったのでは、など様々な説がある。玉垣
は本所中ノ郷、原庭の平戸藩松浦候下屋敷に
住んだことから原庭玉垣と呼ばれた。伊勢ノ
海五太夫は元前頭筆頭柏戸宗五郎とはっきり
している。

明治6年の秋、人望のあった高砂を中心に
改革賛同派は行動に移った。巡業先から興行
収入の明確化、力士の給料支給などを相撲
会所につきつけたのである。これに対し、
相撲会所は番付から高砂ら改革賛同派を黒塗
りにして締め出したのである。これを受けて
高砂は京都相撲や大阪相撲と手を組んで、
高砂改正組を組織した。

(この項目続く)

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この記事を書いた人

無類の相撲好き。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。お問い合わせなどあれば管理をお願いしてる masaguramさんまでX(Twitter)ください。

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