巡業はともかく、東京で興行をおこなう組織
が相撲会所と高砂改正組が存在することに
なった。今と違い相撲会所に国技館はないし、
放送のバックアップもない時代である。この
あたりが昭和の春秋園事件と異なる点である。
東京に2つの相撲組織はまかりならん、と
いうことで相撲会所と高砂改正組を調停する
者が複数現れた。こうして約4年半のときを
経て、明治11年6月2つの組織は1つにまと
まった。その結果次の主な取り決めが実施
されることになった。
1.本場所の収益は歩持ち以上の年寄と大関
2人の立会いで精算する。
2.利益配当金は1割として、規定によって
配分する。力士の給金も支払われ、増減は
主な年寄と大関2人立会いのもとで決定する。
3.番付を公正にする。
4.取締を設定し、全年寄・全力士の投票に
よって決定する。
風雲児高砂の主張が実質取り入れられた調停
となった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/06/「薩州西ノ海嘉次郎」立姿図-春斎画-e1592286824362.jpg)
高砂の系統にはいろう。明治11年5月、高砂
は高砂部屋をおこしていた。主な弟子に横綱
免許を許された初代西ノ海、のち、さらに
小錦が免許を許された。西ノ海は京都の関脇
だった力士である。大関大達・一ノ矢・初代
朝汐をはじめ多くの関取を育てた。
初代高砂の下から最初に独立した力士が関脇
綾浪徳太郎である。明治25年夏場所(6月)、
関脇で全休して引退し、追手風部屋を創設
した。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/06/初代高砂浦五郎A-1.jpg)
その約3年半後、明治29年春場所(1月)
引退した初代西ノ海が井筒部屋をおこした。
井筒部屋のその後の流れは図の通りである。
一時期双葉山相撲道場に身を寄せていた時期
があった。そして時津風(元双葉山)部屋
から井筒部屋を再興させた。その関係で、
系統別総あたり制では時津風部屋と井筒部屋
の力士の対戦はなかった。ただし、立浪(元
緑嶋→元羽黒山)部屋と時津風部屋の力士の
対戦はないが、立浪部屋と井筒部屋の力士の
対戦はあった。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/06/2代朝潮A-e1592286844518.jpg)
本家分家の意識が固まったのは明治末ごろ
からである。高砂部屋と井筒部屋は明治時代、
同じ方屋で対戦はなかった。ところが、大正
4年夏場所、2代目西ノ海(井筒)と2代目
朝潮(高砂)は方屋を別にしている。この
場所両力士の対戦が組まれた。だが、朝潮の
休場で実現しなかった。その後も休場がらみ
でついに対戦はないままだった。
(この項目続く)
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