大相撲

高砂の系統2

2020年6月16日

巡業はともかく、東京で興行をおこなう組織
が相撲会所と高砂改正組が存在することに
なった。今と違い相撲会所に国技館はないし、
放送のバックアップもない時代である。この
あたりが昭和の春秋園事件と異なる点である。

東京に2つの相撲組織はまかりならん、と
いうことで相撲会所と高砂改正組を調停する
者が複数現れた。こうして約4年半のときを
経て、明治11年6月2つの組織は1つにまと
まった。その結果次の主な取り決めが実施
されることになった。

1.本場所の収益は歩持ち以上の年寄と大関
2人の立会いで精算する。
2.利益配当金は1割として、規定によって
配分する。力士の給金も支払われ、増減は
主な年寄と大関2人立会いのもとで決定する。
3.番付を公正にする。
4.取締を設定し、全年寄・全力士の投票に
よって決定する。

風雲児高砂の主張が実質取り入れられた調停
となった。

<西ノ海の錦絵>

高砂の系統にはいろう。明治11年5月、高砂
は高砂部屋をおこしていた。主な弟子に横綱
免許を許された初代西ノ海、のち、さらに
小錦が免許を許された。西ノ海は京都の関脇
だった力士である。大関大達・一ノ矢・初代
朝汐をはじめ多くの関取を育てた。

初代高砂の下から最初に独立した力士が関脇
綾浪徳太郎である。明治25年夏場所(6月)、
関脇で全休して引退し、追手風部屋を創設
した。

その約3年半後、明治29年春場所(1月)
引退した初代西ノ海が井筒部屋をおこした。
井筒部屋のその後の流れは図の通りである。
一時期双葉山相撲道場に身を寄せていた時期
があった。そして時津風(元双葉山)部屋
から井筒部屋を再興させた。その関係で、
系統別総あたり制では時津風部屋と井筒部屋
の力士の対戦はなかった。ただし、立浪(元
緑嶋→元羽黒山)部屋と時津風部屋の力士の
対戦はないが、立浪部屋と井筒部屋の力士の
対戦はあった。

<2代目朝潮のブロマイド>

本家分家の意識が固まったのは明治末ごろ
からである。高砂部屋と井筒部屋は明治時代、
同じ方屋で対戦はなかった。ところが、大正
4年夏場所、2代目西ノ海(井筒)と2代目
朝潮(高砂)は方屋を別にしている。この
場所両力士の対戦が組まれた。だが、朝潮の
休場で実現しなかった。その後も休場がらみ
でついに対戦はないままだった。

(この項目続く)

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denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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