大相撲

横綱の対大関戦の成績4

双葉山が横綱として登場した昭和13年春場所
は、系統別総あたりであった。ところが昭和
15年から東西制に逆戻りした。その結果大関
照國戦は一番失われ、1番になった。また、
昭和18年から19年まで対戦側の方屋に大関が
いない時期があった。

<双葉山のブロマイド>

双葉山は69連勝中に横綱になっただけに、
大関戦いきなり8連勝した。連勝を止めたの
は大関前田山であった。昭和16年春場所は、
前田山の張り手旋風が吹き荒れた場所だった。
横綱双葉山は大関照國に負けた1敗と、計2
敗しかしていない。横綱の対大関戦は14勝
2敗の成績をあげた。大関前田山には5勝
1敗。大関鏡岩・安芸ノ海に4勝と負けな
かった。

羽黒山は双葉山の弟弟子で、戦後の相撲界を
支えた横綱であった。横綱最初の場所は東西
制であった。戦後、昭和22年秋場所から系統
別総あたり制が始まっている。息の長い横綱
だっただけに、対大関戦は30番に及んでいる。
成績は22勝8敗であった。

<羽黒山のブロマイド>

大関佐賀ノ花に4勝2敗、大関前田山に3勝
2敗。このなかには優勝決定戦が含まれて
いる。千代ノ山には2勝3敗だった。また、
昭和27年春場所、羽黒山は15戦全勝優勝で
7回の優勝をしている。だが、この場所に
限って12勝3敗の大関吉葉山戦が組まれな
かった。急遽途中出場した横綱東冨士と羽黒
山が14日目に組まれてしまった。なお、立浪
と時津風は本家と分家の関係なので羽黒山対
鏡里戦は、最初から組まれなかった。

安芸ノ海は横綱として短命であった。対大関
戦は数が知れている。4勝3敗の成績を残し
た。

照國も東西制のなかで誕生した横綱であった。
対大関戦は羽黒山を超えた。35番である。
勝敗は23勝12敗である。佐賀ノ花に5勝5敗
(1不戦敗含む)、汐ノ海に3勝2敗、千代
ノ山・吉葉山に2勝2敗だった。昭和27年
春場所、横綱照國対大関鏡里は組まれなかっ
た。それは、横綱東冨士の途中出場が原因
だった。途中休場した東冨士は残り3日間
出場してきた。千秋楽は照國戦が組まれた。
そのため、横綱照國対大関鏡里戦は組まれ
なくなってしまったのである。

<照國 のブロマイド>

さらにこの場所は大関千代ノ山対大関鏡里戦
もなかった。人迷惑な(?)横綱東冨士の
途中出場であった。

(この項目続く)

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denkouriki

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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