横綱は大関の次の地位ではない。特別な地位
であり、大関とは差がある、という見方が
ある。それでは実際横綱の対大関戦の成績は
どうなのか。横綱といってもピンからきり
までいるし、横綱を目指す勢いのある大関は
強豪かもしれない。対象は横綱が実質地位化
した常陸山以降(東京)をみていくことにする。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/06/5横綱常陸山【絵葉書.jpg)
常陸山・2代目梅ヶ谷が横綱になったのは、
明治37年春場所であった。2人が横綱になっ
たことで大関は空位となった。横綱対大関戦
はしばらくなかった。なお、取組は同じ方屋
同士の対戦はなかった。明治38年夏場所、
國見山と荒岩が大関に昇進した。國見山は
梅ヶ谷サイドであり、荒岩は常陸山サイドで
あった。
常陸山対國見山は預かりに終わった。預かり
とは、勝負の判定がくだせず、行司・検査役
が勝負を預かり置くことで、引き分の一種で
ある。今なら取り直しとなるところだが、
当時はまだない。梅ヶ谷は途中休場のため、
荒岩戦は実現しなかった。ところが梅ヶ谷対
荒岩戦はその後も実現しなかった。この時代の
横綱・大関は途中休場が目立つせいであった。
荒岩は最後梅ヶ谷サイドに組み込まれてしま
った。
![](https://dohyounomokugekisya.net/wp-content/uploads/2020/06/横綱 二代目梅ヶ谷-e1591497942113.jpg)
横綱梅ヶ谷の大関戦は明治40年夏場所であっ
た。駒ヶ嶽戦で敗れている。明治43年夏場所
国技館が開設されると、東西制が施行された。
これは、取組制度は変わらないが、東西どちらが
勝ったかという団体戦が加味された制度である。
勝ったほうが来場所東にまわるシステムである。
太刀山が大関に昇進してくると常陸山に立ち
ふさがってきた。人によっては太刀山を史上
最強の力士に指定しているが、結局常陸山は
2敗1分に終わっている。梅ヶ谷は大関太刀
山戦こそなかったが、駒ヶ嶽に分が悪く、
1勝4敗1分である。横綱常陸山の大関戦は、
2勝3敗4分1預、横綱梅ヶ谷の大関戦は
2勝4敗3分とともに負け越して終わって
いた。
(この項目続く)
2020大相撲力士名鑑(報知新聞社発行)を見ています。
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