昭和46年七月場所、玉の海は全勝優勝、北の
富士は8勝7敗に終わった。玉の海の相撲は
安定して来た。右四つの型と腰で取る相撲は
取りこぼすことは、ほとんどなかった。同時
期のライバル北の富士は不安定さをともなっ
ていた。NHKの解説者神風氏は「これでは
北玉時代ではなく、玉玉時代である」と言っ
たほどである。
そんな玉の海はある病にかかっていた。それ
も早く治療していれば悲劇は訪れなかった
ろうに、と悔やまれる。玉の海は虫垂炎を
患っていた。玉の海は持ち前の責任感から
切らずに注射で散らしていた。それが五月
場所途中から始まっていた。さらに夏の巡業、
九月の本場所と長期に渡っていた。ただし、
8月21日、次の巡業地へ行く途中、盲腸炎が
再発した。翌日秋田大付属病院で診察を受け
た。その後急いで飛行機で帰京した。
実は九月場所前にある話し合いがおこなわれ
た。玉の海の四股名を名のることを許諾した
NHK解説者の玉の海梅吉氏は「症状がでて
いるなら最初から休場したほうがいい。出場
して負けが込んで、休場ではいかにもみっと
もない」と休場を薦めていた。これに対し
横綱玉の海は「先代、私は不死身なんでしょ
うかねえ。無様な相撲を取ったら、遠慮なく
批判してください」とポンと腹をたたいた
という。
九月場所、北の富士は快調にとばした。関脇
貴ノ花は6日目、大関清國に足を取られなが
ら逆転勝ちした。清國が足を抱えたままで頭
をおさえられてしまった。足を取ったら寝ろ、
という鉄則がある。清國はそうすべきだった。
万全でない玉の海が驚きの相撲を見せた。
7日目角界のプリンス貴ノ花戦は歴史的一番
となった。貴ノ花の双差し速攻からの外掛け
をくって、玉の海の腰がくずれた。だが、
もう一つの腰で残し、貴ノ花の両腕を抱えて
土俵下にほうり出したのである。二枚腰が
発揮された瞬間であった。二枚腰という言葉は
知っていたが、どこかぴんとこなかった。
だが、玉の海が実際に見せてくれたのは紛れ
もなく、二枚腰であった。玉の海が二枚腰を
知らしめてくれたのである。
この場所は北の富士が再び全勝優勝した。
7回目の優勝であった。出場した玉の海は
苦闘のなかから12勝と横綱の責任勝ち星を
あげた。だが、玉の海の悲劇は迫っていた。
(この項目続く)
プロ野球、Jリーグ、大相撲、競馬、ゴルフで
最初に観客を入れる分野はどこか。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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