大相撲

元大関の涙の敢闘賞

2019年10月13日

九月場所、優勝同点で優勝争いを盛り上げた
関脇貴景勝に三賞はなかった。なぜなかった
のか。元大関だからか。貴景勝が優勝した
場合、関脇以下の優勝で三賞なしという奇妙
な記録をつくることになるところだった。
この記録の持ち主は過去朝汐と大鵬のみで
ある。確かに琴奨菊は大関降格して2年4場
所経つが、三賞はない。かといって、元大関
は三賞を受賞できない、という規定はない。
190922千秋楽幕内 1489
<御嶽海と貴景勝の優勝決定戦>

事実、次の元大関は三賞を受賞している。
名寄岩 敢闘賞 2回
三根山 敢闘賞
魁傑  敢闘賞 4回
貴ノ浪 敢闘賞
出島  敢闘賞
雅山 殊勲1、敢闘2、技能1

なかでも名寄岩は涙の敢闘賞として、語り
伝えられている。名寄岩はどういう力士で
あったのか。彼は双葉山・羽黒山とともに
立浪三羽烏と称されたほどの力士である。
173センチ、130キロ、得意手は左差し、右
からの引っ張りこみであったが、それでも
強さを発揮した。土俵では相手が横綱であろ
うと誰であろうとにらみつけ、闘志をむき
出しにした。そこからついたあだ名が怒り
金時であった。

入幕は昭和12年春場所だった。昭和18年春場
所、大関に昇進したが3場所で関脇に降格
した。昭和21年秋場所大関に復帰したものの、
またも3場所で関脇に降格した。大関で11戦
全敗を記録したのがこのときである。全敗の
前の場所は左肩痛で全休している。関脇に
降格したときは胃潰瘍と糖尿病との闘いでも
あった。
名寄岩
<名寄岩のブロマイド>

昭和22年秋場所、戦後低迷の大相撲を盛り
上げようと三賞が誕生した。名寄岩は大関
降格後も必死に土俵を務め、その間2回敢闘
賞を受賞した。関脇にカムバックしていた。
その真摯な相撲ぶりは見る者の感動を呼び、
全国的人気力士となっていった。相撲は40歳
まで取り、引退した。

引退後、名寄岩をめぐり2つの動きがあった。
日活が名寄岩をモデルにした「涙の敢闘賞」
という映画を製作し、上映した。また、新国
劇が「名寄岩」を公演したほどであった。

この度の台風災害に遭われた方に
心からお見舞い申し上げます。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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