大正5年5月25日は歴史的一番がおこなわれ
た日であった。夏場所8日目(当時は10日制)、
横綱太刀山が5年ぶり黒星を小結栃木山から
きっした日であった。よく太刀山の56連勝が
ストップしたという言い方がされるが、それ
は違う。その中には太刀山の都合による全休
が3場所もあるのだ。自己都合の休場は連勝
をストップさせるものである。
この一番実は結び、あるいは結び近くにおこ
なわれたものではなかった。当時は幕内に
2度観戦のヤマがもうけられ、取組の途中と
しめくくりに横綱が登場していた。これは
大正15年まで続いた。太刀山と栃木山戦は
最初のヤマに組まれた。また、今の土俵は
15尺(4メートル54)だが、当時は13尺(3
メートル94)土俵であった。この土俵は昭和
6年まで続いた。
立ち上がるや太刀山は栃木山の右を引っ張り
込んだ。栃木山が左から攻めてくるのをあて
がい、割り出しにいこうとした。栃木山、
それをこらえて二本差しになるやすくい投げ
をうつと、太刀山の体が浮いた。栃木山、
機を逃さず出る。太刀山渾身の力でこらえる
も、ついに土俵を割る。満場は潮の如くわき
立って、喝采はやむことはなかった。
栃木山は語る。今日の相撲は相手が太刀山関
ですから勝てるとは思っていませんでした。
どうして勝ったものか、どんな手でいったか、
嬉しいのが一杯で、一晩寝て考えてみなけれ
ばわかりません。
一方太刀山の談話は次のようなものである。
自分はこれまで巡業中何度も申し合いをした
が、1度も栃木などに負けたことはなかった。
栃木が強いと言うのですか?そりゃ1度くら
いの勝負ではわかりませんや。
当時は相撲の結果を知りたい人のために時事
新報社が都内10ヶ所に速報版を立てた。この
一番もいち早く知られることになった。
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