定年まで務めあげるということは、それほど
簡単なことではない。それは相撲界とて例外
ではない。筆者は36代木村庄之助の定年祝い
にかけつけたことがある。これはぶじ務め
あげたお祝いとして開催されたものである。
相撲界の定年は65歳である。これは昭和36年
(1961年)1月から施行された。平成26年11月、
新たな制度が導入された。希望する親方は
再雇用されれば、最大70歳まで勤務できる
ことになった。ただし、部屋持ち、副理事、
理事にはなれない。あくまで参与としての
扱いになる。したがって実質の定年は、あく
まで65歳ということがいえる。
<協会を去った貴乃花>
昨年貴乃花親方は突如協会を離職してしまっ
た。これによって定年まで務めあげた元横綱
の仲間入りは、できなくなってしまった。
元横綱が親方として定年までぶじ務めるケー
スはどれくらいあるのか、改めて調査して
みた。
実質横綱が地位化した常陸山以降を対象と
する。ただし、大阪の3人の横綱は対象から
はずした。宮城山は東西合併後なので加えた。
まず定年制のなかった時代からみていこう。
定年制はなくとも戦前でも「人生70古来稀
なり」と言われた。70歳まで生きるのは容易
でなかった。隠居は55歳くらいであった。
子供が必ずしも育つとは限らない時代であっ
た。
<栃木山>
60歳以上務めたのは、鳳、栃木山、常ノ花
だけである。大錦は三河島事件の責任をとっ
て現役のまま相撲界を去っている。玉錦は
現役のまま亡くなられた。当時は現役と親方
を兼ねる二枚鑑札が認められていたから、
二所ノ関も兼ねていたわけである。
男女ノ川の年寄名男女ノ川は、横綱が自らの
四股名の年寄名を名のることが当時できた
からである。昭和34年9月、この制度は廃止
された。ただし、引退後5年は名のることが
できるに変わって、現在まで続いている。
男女ノ川はその後協会を離れ、様々な職を
転々とし、最後は下足番までしたという。
<元常陸山の出羽ノ海>
一番多いのは、60歳未満で亡くなられた方で
ある。特に40代は常陸山はじめ4人もいる。
親方として道半ばであったのでは、思わず
にはいられない。
(この項目続く)
確定申告の季節です。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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