大相撲

隆の勝の出世街道

2018年8月29日

千賀ノ浦(元隆三杉)部屋の隆の勝が、入門
9年目でついに新入幕を果たした。千賀ノ浦
部屋への入門は15歳のときである。師匠は
元舛田山である。前相撲は平成22年の三月
場所である。同期に輝がいる。四股名は舛ノ
勝である。
隆の勝A
少年時代、相撲経験があるものの、出世は
必ずしも順調といえなかった。序ノ口1場
所、序二段5場所、三段目通算6場所で
ある。ここまではいい。

誰しも幕下では苦戦する傾向はある。しかし、
舛ノ勝はなんと幕下で32場所(途中三段目に
降格した場所を含まず)かかってしまった
のである。5年以上である。勢も幕下は32場
所かかっている。勢のときはもう十両は無理
かなと思ったことがあった。それだけに力士
人生は、けしてものさしでは計れないことが
あることを物語っている。
160323十一日目幕下以下 644
<H28年3月 幕下時代の隆の勝(左)相手は竜電>

舛ノ勝は幕下32場所中勝ち越しが22場所、
負け越しが10場所ある。幕下時代に師匠の
交代があった。師匠の元舛田山が65歳を迎え、
部屋持ち親方でいることができなくなった。
舛田山は春日野(元栃錦)出身の力士である。
本来なら出羽一門の親方が部屋を継ぐのが
筋である。しかしそれがかなわず、貴乃花
一門(当時)の常盤山(元隆三杉)に師匠を
託すといういきさつがあった。また幕下時代
に舛の勝と「の」の字に改名している。
171125十四日目十両幕下以下 442
<H29年11月新十両>

舛の勝は結局44場所かかって十両に昇進した。
このとき隆の勝に改名した。幕下以下の成績
は174勝134敗○40であった。通常勝敗差は
30台が多いのだが、隆の勝は異例の40であっ
た。ちなみに琴恵光も44場所かかって十両に
昇進しているが、○36であった。優勝は1度
もない。最近の新入幕は旭大星・琴恵光・
明生と皆十両以下での優勝がない。

十両に昇進した隆の勝は着実に地力をつけて
いった。46勝29敗と5場所で十両を突破した。
先場所(七月場所)は貴ノ岩と十両優勝決定
戦を行っている。優勝には届かなかったが、
13勝2敗の堂々たる成績で入幕を決めた。
180928赤ちゃん抱っこ 003
<力士会にむかう隆の勝>

隆の勝はまだ23歳である。力士人生はこれ
からである。

台風が多すぎます。

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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