大正15年4月、摂政宮殿下(後の昭和天皇)
の御下賜の金一封で賜杯がつくられた。当時
は摂政賜杯と呼ばれ、幕内最優秀成績者に
渡されることになった。大正15年春場所から
協会が個人優勝制度を正式にスタートさせ、
表彰するようになった。それにともない、
取り直し制度、不戦勝・不戦敗制度が整備
されていった。
優勝力士はよく知られているので、ここ
では次点力士を中心に見ていこう。次点は
当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、横綱・
大関と対戦のない力士ははずした。複数いる
ときは上位力士とした。
玉錦は6回次点に登場する。トータルでは
10回になる。優勝が9回あり、まさに第一人
者であった。常ノ花が優勝10回のわりに次点
が3回しかないのと比較しても、玉錦の充実
ぶりがわかる。なお、小野川は後の豊國で
あり、朝潮は後の男女ノ川である。
昭和7年1月6日相撲の改革を訴え、多く
の力士が、協会を脱退した。世にいう春秋園
事件の勃発である。多くの力士を失った大日
本相撲協会は1月に本場所を開けず、2月に
延期した。しかし、十両から繰上げで入幕
させても20人にしかならなかった。もはや
東西対抗はできず、系統別総当たりで取組が
組まれた。時代は玉錦から双葉山に移って
いった。
目立つ。通算5回次点となっている。優勝が
2回だから、玉錦と双葉山の間に埋没したと
いえる。武蔵山も通算4回次点がある。武蔵
山というと弱い横綱の代表のようなイメージ
があるが、横綱以前は人気力士であった。
双葉山の時代はさらにすすむ。
(この項目続く)
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