大相撲

大相撲優勝・次点力士2 戦前編

2018年4月17日

大正15年4月、摂政宮殿下(後の昭和天皇)
の御下賜の金一封で賜杯がつくられた。当時
は摂政賜杯と呼ばれ、幕内最優秀成績者に
渡されることになった。大正15年春場所から
協会が個人優勝制度を正式にスタートさせ、
表彰するようになった。それにともない、
取り直し制度、不戦勝・不戦敗制度が整備
されていった。

優勝力士はよく知られているので、ここ
では次点力士を中心に見ていこう。次点は
当然優勝者に次ぐ成績の力士だが、横綱・
大関と対戦のない力士ははずした。複数いる
ときは上位力士とした。
戦前1A
まず、常ノ花の時代から玉錦が台頭する時期。
玉錦は6回次点に登場する。トータルでは
10回になる。優勝が9回あり、まさに第一人
者であった。常ノ花が優勝10回のわりに次点
が3回しかないのと比較しても、玉錦の充実
ぶりがわかる。なお、小野川は後の豊國で
あり、朝潮は後の男女ノ川である。
玉錦
<玉錦のブロマイド>

昭和7年1月6日相撲の改革を訴え、多く
の力士が、協会を脱退した。世にいう春秋園
事件の勃発である。多くの力士を失った大日
本相撲協会は1月に本場所を開けず、2月に
延期した。しかし、十両から繰上げで入幕
させても20人にしかならなかった。もはや
東西対抗はできず、系統別総当たりで取組が
組まれた。時代は玉錦から双葉山に移って
いった。
戦前2A
双葉 山
<双葉山のブロマイド>

系統別総当たりの時期、男女ノ川の次点が

目立つ。通算5回次点となっている。優勝が
2回だから、玉錦と双葉山の間に埋没したと
いえる。武蔵山も通算4回次点がある。武蔵
山というと弱い横綱の代表のようなイメージ
があるが、横綱以前は人気力士であった。

双葉山の時代はさらにすすむ。

(この項目続く)

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  • この記事を書いた人

denkouriki

無類の相撲好き。きっかけは昭和42年、九重(元千代の山)が分家独立を許さない不文律の出羽海部屋から破門独立したことです。そのさい、千代の山を慕ってついていった大関北の富士がその直後の場所で初優勝した。こんな劇的なドラマを見せられたことが、大相撲から離れなくなりました。視点は監察委員を八百長Gメン、燃える要素があると強い北の富士を循環気質と呼んだ杉山桂四郎氏に。土俵の心は玉の海梅吉氏に、問題点を探るのは三宅充氏に、そして相撲の本質、真髄は小坂秀二氏に学んできました。本場所は地方場所を含めて年間半分くらい観戦しています。大相撲に農閑期はなく、随時執筆していきます。興味深く読んでいただければ幸いです。

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