かつて相撲博物館は優勝力士100人と称した
展示をおこなった。この優勝というのは実は
両国国技館が開設された明治42年夏場所を
起点としているものだった。これは時事新報
社が幕内最高成績力士の額を国技館に掲げた
ものであった。当然相撲協会の表彰はなか
った。協会が定めたのは東西対抗の団体戦で
あった。勝った方屋に優勝旗を渡した。従っ
て本来は個人優勝と呼べるモノはなかった。

<太刀山のブロマイド>
優勝を決める上での矛盾も目立った。引き
分け、預かりが多く、7勝2分1預と8勝
2敗はどちらが上か。最大の問題点は不戦勝
の制度がなかったことである。対戦相手が
休場すると、自分も「や」扱いにされた。
それでも優勝制度の前提になったことは確か
である。優勝力士一覧はこれまで何度か掲載
されてきた。それに次点力士加えた一覧表を
作成してみた。次点は当然次の成績の力士
だが、横綱・大関と対戦のない力士ははず
した。複数いるときは上位力士とした。また
成績で対戦相手の休場による「や」は相手
休み1として表記した。優勝力士の中に横綱・
大関戦がない最高成績者はグレイで表示した。

太刀山の時代、太刀山は次点が3回ある。
そのうち1回は両国(勇)の新入幕優勝だが、
両国(勇)は横綱・大関戦がなく、単なる
数字の単純比較で涙をのんだ。しかし、両
国(勇)は翌場所次点だったのだから力は
それなりにあったのかもしれない。なお、
両国(勇)は後に分家を許さない出羽海
部屋から部屋をおこし、破門されている。

太刀山の後は大錦と栃木山が登場する。大錦
は大正6年春場所の大関時代、横綱太刀山と
千秋楽全勝対決を制して優勝している。次点
は大錦5回、栃木山5回と両者は大正時代を
代表する力士である。なお、源氏山は、後の
3代目西ノ海である。源氏山は寺尾が一時期
名のったことがある四股名である。3代目
西ノ海は大錦、栃木山、常ノ花を向こうに
まわしての戦いだから大変だったと思う。

<栃木山のブロマイド>
大正15年、あることがきっかけで協会認定の
個人優勝制度が始まる。
(この項目続く)
今回時間がかかりました。
興味深いテーマをこれからもお届けします。
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