大相撲優勝・次点力士1 明治・大正編|33場所の優勝と次点、太刀山と栃木山が9回

明治42年夏場所から大正14年夏場所までの33場所で、優勝に最も多く名前があるのは太刀山と栃木山の9回、次いで大錦の5回である。ただし、この時代の優勝は時事新報社が幕内最高成績の力士の額を国技館に掲げたもので、協会の表彰は無かった。協会が個人優勝制度を正式に始めたのは、大正15年春場所からである。

相撲記者・田口 通廣の連載「大相撲優勝・次点力士」の1回目。優勝した力士と、横綱・大関と対戦した次点の力士を場所ごとに並べた田口の表を、文字に起こした。回数は当サイトが表から数えたもので、日本相撲協会の歴代横綱の一覧の優勝回数(太刀山9回・栃木山9回・大錦5回)とも同じ。大正15年からの優勝と次点は大相撲優勝・次点力士2 戦前編、本場所別の歴代優勝力士は大相撲 歴代優勝力士にある。

目次

明治・大正の優勝と次点|明治42年夏〜大正14年夏の33場所

スポンサーリンク

次点は優勝に次ぐ成績の力士だが、田口は横綱・大関と対戦のない力士を外し、複数いるときは上位の力士をとっている。成績の「相手休」は、対戦相手の休場で自分も「や」になった取組を、田口が相手休み1として書いたものである。

場所優勝地位成績次点地位成績
明治42年夏高見山(西)前77勝3分常陸山横綱7勝1敗2分
明治43年春常陸山横綱7勝2分1相手休太刀山大関6勝2分1預1相手休
明治43年夏太刀山大関9勝1分國見山大関7勝1敗2分
明治44年春太刀山大関8勝1分1預2代西ノ海大関6勝1敗2分1預
明治44年夏太刀山横綱10戦全勝駒ヶ嶽大関8勝1敗1分
明治45年春太刀山横綱8勝1敗1分2代西ノ海大関7勝1敗2分
明治45年夏太刀山横綱10戦全勝鳳関脇7勝1敗2分
大正2年春鳳大関7勝1分1預1相手休常陸山横綱6勝1敗3分
大正2年夏太刀山横綱10戦全勝伊勢ノ濱関脇9勝1敗
大正3年春太刀山横綱10戦全勝鳳大関8勝2敗
大正3年夏両国(勇)※前149勝1相手休太刀山横綱8勝1預1相手休
大正4年春鳳大関10戦全勝両国(勇)前37勝2敗1分
大正4年夏太刀山横綱10戦全勝大錦小結9勝1敗
大正5年春2代西ノ海大関8勝1分1相手休大錦大関8勝2敗
大正5年夏太刀山横綱9勝1敗2代西ノ海横綱8勝2敗
大正6年春大錦大関10戦全勝太刀山横綱9勝1敗
大正6年夏栃木山大関9勝1預大錦横綱9勝1敗
大正7年春栃木山大関10戦全勝大錦横綱8勝1敗1相手休
大正7年夏栃木山横綱9勝1敗常ノ花前18勝1敗1相手休
大正8年春栃木山横綱9勝1相手休大錦横綱8勝2敗
大正8年夏栃木山横綱10戦全勝源氏山前69勝1敗
大正9年春大錦横綱8勝1敗1分栃木山横綱8勝2敗
大正9年夏大錦横綱9勝1敗栃木山横綱8勝1分1預
大正10年春大錦横綱10戦全勝栃木山横綱9勝1預
大正10年夏常ノ花大関10戦全勝大錦横綱9勝1分
大正11年春鶴ヶ濱前49勝1敗栃木山横綱8勝1敗1預
大正11年夏大錦横綱8勝1敗1分栃木山横綱7勝1敗1分1相手休
大正12年春栃木山横綱8勝1敗1分源氏山大関8勝1敗1分
大正12年夏常ノ花大関9勝1分1預能代潟前47勝1敗2分1相手休
大正13年春栃木山横綱9勝1分常ノ花大関8勝2敗
大正13年夏栃木山横綱10勝1敗大ノ里関脇9勝2敗
大正14年春栃木山横綱10勝1分3代西ノ海横綱9勝2敗
大正14年夏3代西ノ海横綱9勝2敗出羽ヶ嶽前29勝2敗
出典=田口 通廣 作成の表(下の2枚の画像)を当サイトが文字に起こした。東西制の時代。※は横綱・大関戦のない最高成績者(田口の表でグレイ)。「預」は預かり、「分」は引き分け
明治・大正の優勝と次点 明治42年夏〜大正5年夏(田口 通廣 作成)
<明治42年夏〜大正5年夏の優勝と次点(田口 通廣 作成)>
大正の優勝と次点 大正6年春〜大正14年夏(田口 通廣 作成)
<大正6年春〜大正14年夏の優勝と次点(田口 通廣 作成)>

明治・大正の優勝は時事新報社の優勝額から|協会の表彰は無かった

かつて相撲博物館は、優勝力士100人と称した展示をおこなった。その優勝は、両国国技館が開かれた明治42年夏場所を起点にしたものだった。時事新報社が、幕内最高成績の力士の額を国技館に掲げたのが始まりである。当然、相撲協会の表彰はなかった。

協会が定めたのは東西対抗の団体戦で、勝った方屋に優勝旗を渡した。したがって本来は、個人優勝と呼べるものはなかった、と田口は書いている。

横綱太刀山
<太刀山のブロマイド>

引き分け・預かりが多く、不戦勝の無い時代

優勝を決めるうえでの矛盾も目立った。引き分け・預かりが多く、7勝2分1預と8勝2敗はどちらが上か、という問題があった。最大の問題点は、不戦勝の制度がなかったことである。対戦相手が休場すると、自分も「や」扱いにされた。

それでも、この額が優勝制度の前提になったことは確かである。優勝力士の一覧はこれまで何度か掲載されてきた。田口はそれに次点の力士を加えた一覧表を作った。

太刀山の時代|優勝9回、次点3回

表の33場所で、太刀山は優勝欄に9回、次点欄に3回名前がある。次点3回のうち1回は、両国(勇)が新入幕で優勝した大正3年夏場所である。両国(勇)には横綱・大関戦がなく、太刀山は単なる数字の比較で涙をのんだ、と田口は書いている。

しかし両国(勇)は翌場所に次点になっているので、力はそれなりにあったのかもしれない、と田口は見ている。両国(勇)は後に、分家を許さない出羽海部屋から部屋をおこし、破門されている。

大錦と栃木山の大正時代|次点の回数

太刀山の後に登場するのが大錦と栃木山である。大錦は大正6年春場所、大関のときに横綱太刀山との千秋楽の全勝対決を制して優勝している。

田口は本文で、次点は大錦5回、栃木山5回と書き、両者は大正時代を代表する力士だと見ている。上の表で数えると、栃木山の次点は5回、大錦の次点は6回(大正4年夏・5年春・6年夏・7年春・8年春・10年夏)である。

栃木山
<栃木山のブロマイド>

なお、源氏山は後の3代目西ノ海である。源氏山は、寺尾が一時期名のったことがある四股名でもある。3代目西ノ海は大錦・栃木山・常ノ花を向こうにまわしての戦いだったから大変だったと思う、と田口は書いている。

大正15年、協会の個人優勝制度が始まる

大正15年、あることがきっかけで協会認定の個人優勝制度が始まる、とこの回は結ばれている。続く大相撲優勝・次点力士2 戦前編によると、摂政宮殿下(後の昭和天皇)の御下賜の金一封で賜杯がつくられ、大正15年春場所から協会が個人優勝制度を正式にスタートさせた。それにともない、取り直し制度、不戦勝・不戦敗制度が整備されていった。

スポンサーリンク

明治・大正の優勝力士についてよくある質問

Q. 明治・大正で優勝が最も多い力士は?
A. 田口の表の範囲(明治42年夏場所〜大正14年夏場所の33場所)では、太刀山と栃木山の9回です。次いで大錦の5回です(当サイトが表から数えた回数)。

Q. 明治・大正の優勝は、いまの優勝回数に数えられていますか?
A. 日本相撲協会の歴代横綱の一覧では、太刀山と栃木山の優勝を9回、大錦を5回と数えていて、この表の数と同じです(2026年9月27日確認)。ただし当時は協会の表彰がなく、時事新報社が幕内最高成績の力士の額を国技館に掲げたもので、明治42年夏場所が起点です。協会の個人優勝制度は大正15年春場所から始まりました。

Q. 「次点」とは何ですか?
A. 優勝に次ぐ成績の力士です。田口は横綱・大関と対戦のない力士を外し、複数いるときは上位の力士をとっています。

Q. 不戦勝がない時代、相手が休場するとどうなりましたか?
A. 自分も「や」扱いにされました。田口の表では、これを「相手休」として成績に書いています。

▶ 連載「大相撲優勝・次点力士」:1 明治・大正編(この記事)/2 戦前編/3 戦前~戦後 場所数変遷期/4 昭和30年代/5 昭和40年代/6 昭和50、60年代/7 平成前期/8 平成中期/9 平成後期/令和初期編/続令和初期編

関連記事:大相撲の全勝優勝/横綱優勝次点番付

ブログランキング

当サイトはブログランキングに参加しております。記事をよんでいただいたら、以下バナーをクリックいただくと、ランキングに反映されます、1日1クリックよろしくおねがいします
にほんブログ村 格闘技ブログ 相撲・大相撲へ
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

少年漫画雑誌、日経関連の編集者を経て独立。現在は大相撲を専門に取材するライター。ほぼ毎場所、自ら土俵際で撮影している。にほんブログ村 相撲・大相撲カテゴリでランキング1位。

目次